先日、大先輩の金融マン(フィクサー?)からベンチャーが大企業にアプローチすることへのアドバイスをいただいた。
「彼らの“世界”に出入りするための条件がクリアされなければ、その世界に入れてすらもらえない」
「それは、一つは革新的なコンセプトやマーケットなどを持つか、ということだが、もう一つは、『顔』が認識されること(≒信用)だ」
「彼らの世界の中に“す~っと”入ることができる要素をベンチャー側がどれだけ備えているかが大事だ」
「大企業は嫉妬の世界。特にベンチャーに対しては一段も二段も下に見ているので、すぐ嫉妬の対象になる(あんな奴はたいしたことないよ、的な)」
「本来は全く新しいコンセプトを生み出した人(ベンチャー)が偉いが、立場が低い相手には、彼らは平然と『これは最初に自分たちが作った』と主張する」
要するに、ほとんどの場合、大企業に対するベンチャーのアプローチは傲岸で尊大な大企業側によって門前払いされ、その上で果実すら奪われてしまうことすらあるのだ、ということを、その方はおっしゃったのかな、と思う。現実は間違いなく、その通りなのだろう。

先述の経産省と大企業(そして経団連)のこの分野への“お墨付き”を与えるプロジェクトは、どうしたってそういう“上から目線”“選別者側の価値観”を包含している。
自分などは、その目線を“変える”ことが日本が“変わる”チャンスになると思うのだが・・・それは想像以上に難しいのだろうな、とも思う。

このブログで再三アピールしているわが企画『真央ちゃんになりたい!』では、大企業で組織に属し、権威主義的に働いている主人公の父親が社内の抗争に敗れ、古い友人が始めた新規ビジネスをベンチャーとして海外で始める、という設定にした。父親が「自分こそが変わらなければ」と思うきっかけは、大切な一人息子が精いっぱい生きようとしている真摯な姿を“我がこと”として捉える“価値変容”をしたからだ。
やはり、この企画はまだまだ古くない。。これからまだあきらめずに実現を目指したい。

話は変わるが、今から2年ちょっと前に、ネット上でSさんというあるIT企業の元経営者が「テスラの躍進(※)を見るに、日本企業のエネルギーの無さは組織自体が高齢化しているからではないか?」という記事を書いておられた。
※ 当時のテスラは今と違い、本当に飛ぶ鳥を落とす勢いだったので
その方のご意見に大いに賛同し、コメント欄から勝手に我が意見を送ったのが以下の文章だ(Sさんに届いたかどうかもわからない)。相変わらず粗忽な行動だったな、とは思っているが、文章自体は、今読み返しても、悪くない気がしている。

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<1>私は、最近日経ビジネスで「ゆでガエル」と評される50代に差し掛かろうとする「バブル世代」に位置づけられる者です。
さりながら、自分としてはここ10年間ほど「世界は大きく変化しつつある。このままではいけない。我々は変わらなければ」という危機感をベースに、あるチャレンジを継続しています。残念ながらそのチャレンジは一向に花咲き実を結ばないものの、葉は茂ってきていると信じ、前を向いて進んでいます。
S様がおっしゃる「人間だけでなく、経済成長の担い手である企業も高齢化して、無難に過去から蓄積した事業を守ることに執心し、リスクばかりが見える新しい事業に取り組むエネルギーが枯渇してしまっているのだろうか」という問題意識はまさにその通りだと思います。失われた20数年を経ていまだに“変われない”のは、日本社会全体が老化現象を起こしているのでしょう。

<2>しかし、この社会を変革するためには「世代が入れ替わって若い世代が台頭するのを待つしかない」ということではないと思います。確かに現在、若い世代にチャレンジングなベンチャースピリットを持ち世界を視野に動き出している人が増えてきています。彼らや五輪で活躍する若きチャレンジャーたちには快哉を叫ぶできです。
一方、同じ世代の大半は、これまでの大多数の日本人同様、あるいはそれ以上に「寄らば大樹」志向が強く・・・これは非正規雇用などで広がる格差を背景にしているため、一概に責められる話ではないのですが・・・むしろ、社会全体としてはより保守化している側面も見受けられます。
ですから私は、これは単純な世代論などではない、という認識を社会全体が共有しなければならないと思いますし、問題を「老化現象」という言葉で表現しては誤解を招きかねない、と危惧しています。

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