High School映画と情報リテラシー

高校三年生の時、クラスメイト達と一緒に映画を作った。映画作りの言い出しっぺのMが、自分はせっかく8ミリ撮影機と編集機を持っているのに、結局、3年間の文化祭で映画作りを体験できなかったのが悔しい、ということから、周りの仲間を集めて、放課後を中心に映画撮影を行った。
作品の内容そのものは他愛もないもの(関係者の皆さん、スイマセン(笑))だったが、限られた仲間たちだけで、ほかのクラスメイトや教師たちの目を盗んで行う映画撮影という行為そのものに、我々は熱中した。
本来、受験勉強のスパートが始まる秋からのプロジェクト始動だったので、この映画作りに関わった友人の何名かは、これに熱中しすぎたせいか、翌年の受験で大打撃を受けることになった。言い出しっぺのMがまさにその筆頭だった。自分は意外と要領がよかったということなのか、夏休み中の猛勉強(?)の蓄積があったためか、あるいは、友人たちからのバッティングセンターのお誘いをかたくなに断ったおかげか、ありがたいことに志望校の一つに滑り込めた。

とても楽しい思い出なのだが、一方で今でも自己嫌悪に陥るような思い出も併存する。
映画を仲間内で作るということが楽しくて、参加者内に得も言われぬ特別な一体感ができた。その世代の男子にしては若干、引く話だが、この映画製作をめぐるよもやま話を書き綴る“交換ノート”ができ、それが仲間内で回された。今でいう「グループLINE」のようなものだろう。そして、今のSNSでも起きているように、“仲間内の一体感”は“排除の論理”を生んだ。映画製作に加わらなかった、いや、あえて言えば、積極的に加わらせなかったクラスメイトたちへの“陰口”や“悪口”がノートの中に蓄積され、仲間内で楽しく“消費”された。
それを書き綴る自分たちに意図的な悪意があったかといえば、それほどではなかったのではないかと思う。いわゆる“ノリ”だったりもしたんだろう。そうやって無責任に人を貶めて悦に入れる若さが許されるぎりぎりの年齢だったかもしれない・・・いや、そんなことが許される年齢など、本来、あるはずがないし、あってはならないのだけれど。

それから10年近くたって、当時排除したクラスメイトの一人のKくんと飲むことがあった。「あの時、櫻井たちが映画を作ってるんは知ってたで」「俺らをのけ者にしてたんも、当然、気付いてたし、ごっつ、傷ついたで」と言われた。本当に申し訳なく、そして、本当に恥ずかしいことをしたと思った。
Kくんとはそれから、何のわだかまりもなく今でも付き合ってもらっている・・・と書ければ美しいのだが、その後、彼とは疎遠になってしまった。最後に飲んだ際、酔いも手伝って自分が彼にささいな軽口をたたいてしまい、そのままになってしまっているのが、なんとも情けない限りだ。
これからも続く人生の中で、自分の未熟さをいかに改善していけるか。自信はないが、それでも前に進めたら、と思う。

さて、先述の「グループLINE」的ノート。あれで悪口を書き始めたのが、どうやら自分だったのではないか、という疑いがある。自分は全く覚えていなかったのだが、やはり卒業後10年近く経った頃、Mが、そうだと指摘した。曰く、
「普通やったらノートの最初に書くやん。けど、櫻井は『そんなとこに書いたら、俺が始めたと思われるやん』言うて、3ページ目ぐらいから書き出しよってん。それ見て、“うわっ、コイツ腹黒っ!”て思てんで」
ホンマに? 俺って、ただのクズじゃん! そう言われても、自分の悪行をはっきりとは思い出せなかったのだが、ふと別の言葉がよみがえった。
Pという、今は情報関連企業で偉くなっているらしい友人から、自分のその行為について、「櫻井は“情報”というものがよくわかってるな」と言われた、ような気がする(今にして思えば、Pはあのころから情報の本質について深く考えていたんだろうなあと、感心する)。とはいえ、この記憶自体、さだかではないのだけれど。

情報とは何か? これを考え出すと、誠に頭が混乱してしまう。我々は感覚的に、世の中に流れる情報の大半が「正しいこと」「実際に起こったこと」と感じている。しかし、実際、そこには何の確証も示されていないことも多い。巷をにぎわす「フェイクニュース」論議しかりだ。
もっと言うと、歴史に残る記録物にしても、多くは征服した側が有利なように書かれている。大げさな事実の捻じ曲げをしなくても、(Mの言う)自分が行ったような“時間軸のすりかえ記述”を行うことで、簡単に事実とは異なった“情報”が記録され、後世に残っていってしまう。

マスメディアから流される情報や巷の流行なるものは、すべてがプロパガンダであり、何らかの“意図”が働いている、という考え方もできる。マスメディアに限らず、ネット上の情報こそ真偽が定かでないものが非常に多い。これも発信者側に何らかの“意図”があるからに相違ない。
実際、そう思ってニュースなどを眺めると、「?」と思うものは何件も見いだせる(「そのスポーツ、そんな流行ってないでしょ。カメラの後ろはガラガラじゃないの?」「そんな大きな風、吹いてないはずだよね?」等々)。
もちろん、その“意図”するところの背景に、すべて悪意があるとは思わないので、ある種、社会構造上やむを得ないことでもあるのかな、と思ったりもするのだが。。(とはいえ、今、目に映るそれらは“やりすぎ”に思うことが多いのだが)

これまでの世の中では、「(結果的に)多くの人々によって“正しい”と追認される情報が“正しい”情報だ」という構造になっていた、ということなのだろう。そして、多くの人々がそう思い込むための社会的装置が、マスメディアやその構成要素(ギョーカイジンなど?)だったりしてきたのだろう。

それでは、リアルタイムで個人によって情報発信され、スマホのカメラでそれが検証される今の世の中において、“情報”は本当に“正しいもの”に変わっていくのだろうか?

今やSNS全盛の世の中になって、個人一人ひとりの言動がテキストや映像の形で記録され、消費される世の中になった。Facebookなどで個人の属性情報が露わになり、人的関係が可視化され、言動の履歴を他人が何年もさかのぼって確認することができる。
“若気の至り”の多くが許された我々の時代と違い、今の若者は生きづらいだろうな、と思うし、大人も公的な立場であれ私的な立場であれ、いろいろと言動に注意しなければならなくなった。

そして、Facebookなどプラットフォーマーに蓄積された属性情報や「いいね!」履歴などの個人データは、ビッグデータとして、消費者などの全体的な嗜好性を占うために活用されてきた。ケンブリッジ・アナリティカがアメリカ大統領選挙で活用したように。もちろん、もっと有益な(?)利用事例はたくさんあるはずだ。
詳しくは知らないが、個人が投稿するコメント内容も、語彙のパターン性などで分析され、個人ごとの嗜好性などの判断材料となり、One to Oneマーケティングなど商業活動に用いられることもあるのだろう。それは決して悪い話というわけでもない。もちろん、そういう方法が為政者によって監視に利用され言論封殺に陥ってしまうとすれば大問題だけれど。

ただ、そんなときにふと思うのだが、自分たちが発信しているコメントなどの“情報”は、はたして、どれほど正しいのだろうか。報道におけるファクトかどうか、というジャーナリスト的な意味でなく、もっと軽い個人の自分自身の日記的な投稿ですら、それは正確なものなのだろうか・・・いやいや、それらの多くは華美な衣装をまとって描かれているのではないか。あるいは、いくら誠実に書き記そうとしても、言葉にした時点でおそらく違ってしまっているはずだ。
そもそも、自分たちの思念自体が結構、アバウトなもので、一つの事柄に対して思うことが、その時々によって大きく変わってしまう。それを優柔不断と断罪するのは簡単だけれど、そういうアバウトな要素を多く含むのが、逆に人間的だと思うのだが。

今、AIを駆使してSNSなどで発信された情報履歴から履歴書を作り、企業に供するような採用活動の支援サービスなどが実際にできているらしい。その際にどういった情報を基礎情報として利用しているのかは知らないが、ネット上に表出されている、本人の実像とは異なる履歴をうのみにするのは、就活に臨む学生たちにとっても企業にとっても、不幸なことかもしれない。
あるいは、NHKスペシャル「AIに聞いてみた」シリーズで、ビッグデータからAIを利用した解析に基づいて行われる社会提言。ああいったものも、番組的には面白いが、すべてをうのみにしてしまうのはマズイのだろう。

先日書いた記事(http://www.lifeisentertainment.jp/2018/10/13/%E3%81%90%E3%82%8B%E3%81%90%E3%82%8B%E3%81%90%E3%82%8B/)で、どういうニュースを取捨選択するのか、リテラシーが必要になってきた、と書いた。しかしながら、実際には自分のようないち個人が「何が正しいか?」を正確に判断することなど、無理だと思ったほうがいいかもしれない。
それでも、簡単に誰かの言葉をうのみにしたりせず、ぐるぐるぐるぐると「?」で頭を巡らし続けることは、決して悪いことではない。
そういう姿勢を、今後も続けていきたいと思う。

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