「変われない」のか「変わりたくない」のか⑥

『真央ちゃんになりたい』では、主人公の父親は“エネルギー関連”の仕事に就いている組織に積極的に隷属して生きるちょっと嫌な感じの奴な設定にした。

お上と大手電力会社とのコネクションを軸にビジネスを進める守旧派に属する彼は、新たにスマートグリッドをIoTと絡めて家電などの企業体と一緒に推進しようとする革新派を追い落とす。しかし、社内力学が変わり、彼の会社での居場所がなくなって初めて、「自分には大事な息子がいる。自分自身の人生がある」と思い至り、新たなチャレンジに挑む、そういう話になっている。

思えば、自画自賛だがそんな頃から“エネルギー業界”を対象にしたのは、我ながらいい着眼点だったのではないかと思う。

少し変わった方向からのご提案20180215

ここでも書いているが、エネルギー・電力を取り巻く環境は、今後、大幅に変わっていくように思う。

とはいえ、自分が初稿を書き上げたのは2010年末で、まだまだ自分にはスマートグリッドやエネルギー政策について知識がなかったし、そもそもIoTという言葉などまだバズワードとしてすら聞こえていなかった。
なので、その辺はあくまでも物語の背景として“垣間見せている”程度なのだが。
(あと、今では当たり前の「スマートメーター」という呼称だが、原稿を書いていた2010年夏ごろに参考にした本に基づき、脚本では「グリッドメーター」と書かれていたりする。)

このストーリーを、ソチ五輪をターゲットに実現化させたかった。
せっかくとても優秀な監督さんが「もし、本当に櫻井さんがお金を集められるなら、撮ってもいいですよ」とおっしゃってくれていたのに。

悔しい、本当に。
自分自身の力量の無さが。
(さすがに、もう題材としては古く、実現は難しいかと思ったり。。リノベーションの可能性など、決して諦めるべきではないのかもしれないが。)

「変われない」のか「変わりたくない」のか⑤

でも・・・。
それでも、自分は正直、「もったいないよなあ」と思っていた。

確かにエンタメファイナンスも海外を絡めた映画の国際共同製作などのビジネスも、国内のメジャーなプレイヤーからすると愚にもつかなく映るものだったかもしれない。

でも、そこに落ちている“異界”の「タネ」をとにかく拾ってみて、芽吹けば御の字、芽吹かなければやむなし、くらいの軽い気持ちで、フレキシブルに、機動的に、動いてみたらいいじゃないか。
せっかく、友人・知人がその“異界”から現れたのだから。

「もしかしたら世の中は変わるかもしれない(その可能性が全くないわけではない)」と考え、情報交換のような軽いコンタクトでもあればよかったのに、と思っている。

言っておくが、これはその友人への“個人攻撃”のつもりでは全くない。
むしろ、こういうフレキシビリティーの有る考えの持ち主が、特に日本の大企業には少ないよな、ということが言いたいのだ。
なかんずく、我々の世代に。

正直、山一證券の破たんを経験し、最終的に“組織人生”をスピンアウトした自分から見ると、若干、“異様に”すら映る。
東芝、神戸製鋼、シャープ・・・組織の中で生き抜くことを主眼におき、周りを、そして未来を見ずに生きている人たちのいかに多いことか。

「世の中は変わらない」

そう思い込んでいるようにすら見える。
もちろん、311を経て、あるいは昨今の東アジア情勢の緊迫化などを受け、世の中が大きく動こうとしていることを感じている人は少なくないと思うのだが、こと“自分を取り巻く世界”については、不変であると信じ込んでいるように見える。

「変われない」のか「変わりたくない」のか④

この自己紹介ページにある『真央ちゃんになりたい』という脚本(のショート・シノプシス)。

書いてある通り古い友人との口論が、物語を想起した理由の一つだ。

 

もう少しつまびらかに書いてみる。

 

2007年ごろ。

チャレンジの結果、エンタメ・コンテンツ業界に入ることができたものの、まるっきり初めての世界で周りにほとんど頼れる存在が居なかった。

なので、当時、大企業で広告やPRの分野で映画ビジネスに大きくかかわっていた古い友人に相談に行った。

映画というよりもそれを取り巻くビジネスを担ってきた彼からすると、自分の「これからはコンテンツ・ファイナンスが・・・」などという話は幼稚なたわごとに聞こえたのだろう。興味を示されることはなかった。

 

その2年後、国際映画祭の場で海外の映画等の製作・制作者を呼んできて企画をピッチしてもらい国内外の方々にマッチングさせるイベントの仕事に関わっていた。

 

リベンジのつもりも有り、彼に再びアタックした。

「このイベント会場に来てくれないかな。パーティーも有りそこで色んな国の人々と出会うこともできるし」

 

食い気味に、厳しく(そして諭すように)こう返された。

「いいか、日本の映画ビジネスは製作委員会方式で儲かるメンバーは固定している。映画祭を軸にした映画製作なんて(作品自体の良否ではなく)商業的には儲からない」

「お前がやろうとしている金融を使って投資家層を外に広げようとか、海外市場を新たに狙おうなんてのは、全くの時間の無駄だ」

 

それでも諦めきれず、

「いやだけど、海外の人と会えるってことは、(今ではなく)将来のビジネスに繋がることも有るかもしれないぜ」

と返したら、

 

「そんな名刺交換会なんて、仕事ができない奴が言い訳のために行くようなところだ」

と言い放たれた。

 

頭に血が上るほど悔しかった・・・が。

少し時間が経ち、仕方がないな、とも思っていた。

ビジネスの観点から言えば、彼の指摘は100%正しかった。当時においては、だが。

 

ちなみに彼とはその後、自分が非常に怒ったことを伝える長い手紙を書いて、その手打ちに一緒に飯を食いに行った。それ以降、何のわだかまりもなく付き合っている。

以降は彼の意志も尊重し、こちらからこの種の売り込みをかけることは控えるようにしてきた。

彼も彼なりに気を使ってくれていたらしく、自分が知らないところで社内外でイベントのことを少し話してくれたらしい。

後で聞いたら、彼からの情報がきっかけでイベントの重要な出席者となってくれた方もいたようだ。

そこまできちんとは話していないが、有難いことだ。

感謝。

「変われない」のか「変わりたくない」のか③

だからといって別に、自分の周りの方々(あるいは、大きくくくって「一般的な日本人」)を、「駄目だねぇ」と腐すつもりなんかない。

全くない。

むしろ・・・悔しいのだ、自分自身が。

 

あの当時、浸透期にあったSNSで繋がっていた同世代に友人たちに、「我々の世代は、もし時代が変わらないままだと利益が享受できる最後の世代だが、時代が変わったら最も痛手を喰らう世代なのではないか?」という問いかけをした。

それは、(周りからはある意味、粗忽者と思われるような)自身のチャレンジを理解させたい、あるいは正当化したい、というやや後ろ向き(?)な気持もあってだったと思う。

(実際、その後に設立した会社名のライフ・イズ・エンタテインメントという文字を見て、「エンタテインメント・・・お笑い芸人を目指すんだ?」と大ボケをかましてくれた方もいたような状況だったし。)

 

「世の中は変わると思うんだ。自分に何ができるかまだ分からないけれど、それでも、(年齢だのなんだのと言わず)そこにチャレンジしたいんだ」

「自分は“クリエイション”というのはある種の人間の根源的欲求だと思っている。自分もその欲求に素直でありたいんだ」

 

格好つけるとそういうことを言ってはみるものの、例えばリストラやコンプライアンスのお題目で組織の中で地位を守ることに汲々としていたり子育てに邁進していたりしていた自分の友人・知人たちは、「そう・・・頑張ってね」としか反応を返さなかった。

 

誰がどうこうではなく、自分自身の“人を巻き込む力”の“ひ弱さ”のせいだろう。

そして、結局、長く続けた「コンテンツ・ファイナンス」「クリエイション」のチャレンジは、ほとんど結実しないまま月日だけが過ぎていった。

「変われない」のか「変わりたくない」のか②

2007年ごろ・・・。

 

・期待先行で実際どんな収益モデルを描き出すつもりかわからなかったYoutubeが、ようやく「動画と一緒にCMをつけます。で、動画投稿者にそれを還元できるようにします」という具体的動きを始め出した

→今や(彼らが食えるか食えないかはさておき)ユーチューバー全盛期に

→動画を軸に個人が認知を広げ「インフルエンサー」と呼ばれ商業利用される時代になった

 

・それまでアメリカでネットを介してDVDの個人向け取次を行っていたNETFLIXは、このあたりから本格的にストリーミング配信に乗り出した

→今や、前回の記述の通り。グローバルな巨大プラットフォーマーに

 

・日本の興行収入は2012年まで世界第2位だった。方や当時の中国って確か、、日本の半分以下じゃなかったっけ

→中国は2013年に世界第2位になって以降、今や日本の3倍。世界一にあと少し(というかすでに世界一?)

 

・携帯電話ではスマホはまだ“実験段階”(2007年に、当時の上司がスマホ試作版を見てきたらしく「これから世の中、ガラッと変わるよ!」と興奮気味におっしゃっていたのを鮮明に覚えている)

→今や、(画像が動画に、という変化のみならず)人々のコミュニケーション全てにおいて中心的な存在に

→決済手段を提供することでキャッシュレス社会化(特に中国)

→世の中のあらゆる情報の「入り口」であり、現在のところビッグデータの過半を占める「情報収集マシーン」になった

 

今振り返れば、色んな「兆し」が有ったんだと思う。

いや、上記に書いているようなことは、兆しどころか、既に“そうなりつつある”力強い変化の胎動であったはずだ。

今振り返ると、いろんなチャンスの「タネ」が落ちていたはずだ。

 

でも、アグレッシブでパワフルなベンチャー起業家などごく一部を除いては、自分の周りの(普通の)人々を基準に考えると、多くはそれを真剣に見つめることをしていなかったのではないだろうか。

「変われない」のか「変わりたくない」のか①

前のブログで、9回(①~⑨)にわたる長文を書いた。
大幅に集約すれば、以下のような内容だ。

・プレミアムな映像コンテンツのビジネスはネットを土台にしたグローバルなプラットフォーマーの大競争時代に入った
・その結果、得られるパーセンテージは低いかもしれないが、クリエイター(制作プロデューサー含む)が潤う「コンテンツ・イズ・キング」の時代が訪れることを期待する
・長期的な資産価値形成の可能性も鑑み、下支えとなるコンテンツ・ファイナンスのニーズが期待される
・既存の映画やテレビのビジネス領域は、新しいグローバル・プラットフォーマーに侵害されるが、彼らと組んで新たな映画・テレビの流通システムを構築することでチャンスは残っている(既存プレイヤーではなく、新規プレイヤーの参加の方があり得ると思う)

実はこれは我田引水で、自分が書いた『コンテンツファンド革命』に書いたことでもある。
別に、自分ひとりが考えたなどというつもりは全くなく、むしろ、経産省(旧通産省)など含め、もう20年近くも前から色々なところでこれに近い議論はなされてきたことと思う。

でもさあ、ちょっと待って。

20年前、いや、10年前でもいいけど。
どうして、日本ではほとんど「何も変わっていない」の?
変われなかったの?

自分は、それまでの金融の世界を離れ、2007年ごろから映画や映像コンテンツに関わる世界に携わっている。自分としては、ここ数年は金融の世界に戻って両者の間に立とうとしてきた。
自分としては、人生を賭けた「チャレンジ」を継続してきたのだと考えている。
(自身、必ずしも常にポジティブな姿勢でいられたわけではなかったと思うが)

「コンテンツ・イズ・キング」は幻か?⑨

だからといって、日本のコンテンツが「全て海外のプラットフォーマーに持っていかれる」わけではない。
むしろ、こういったグローバル・プラットフォームが出来上がることで、コンテンツの権利者に様々な収益機会が生じるであろうことは間違いない。

そしてそれは、前に書いた通り、将来の収益期待を見越したリスクマネーを供給する投資家を呼び込むことにもつながる。
更に、NETFLIXなどデータの裏付けが有るグローバル・プラットフォーマーでの配給期間経過後は、その作品の潜在的資産価値も測定しうると考えられる。
それは、権利者にとっては転売市場の存在を意味する。
作品が複数のグローバル・プラットフォーマー上でどう消費されたか、あるいは、複数の作品がどういう相関性を持っていたか、等々のトラックレコードを利用できるのであれば、投資家にとっては非常に有益な判断材料となるだろう。

残念ながら、おそらく、ほとんどの作品にはさほどの財産的価値は認められないだろうが、それでも、一部の作品には長期的な価値評価が付くだろうし、その権利を求める需要は場合によれば半永久的にあるかもしれない。

角川会長が講演でおっしゃられたように、巨大プラットフォーマーが搾取に走るのは、ある程度やむをえまい。
それでもなお、いずれ構築されていくであろう新たな「グローバルなコンテンツ流通のエコシステム」においては、「コンテンツ・イズ・キング」なのだ、と思いたい。

楽観的過ぎるだろうか?

「コンテンツ・イズ・キング」は幻か?⑧

実は、書きたかったのはその「先」に有ったのだが、映画と映画祭について多く先過ぎてしまった・・・反省。

自分は、長い間、既存の映画ビジネスやテレビビジネスは大きく変革するであろうと感じてきた。
(そんなことは、自分以外でも大勢の人々が感じているはずだが。)

この提案書は、作っては見たものの、具体的なアクションを起こせずに、周りの何人(十何人?)かに見せてそのまま終わっているものだ。
自分が推進するには大きすぎてどうしようもないからだ。

新配給興行システム(素案)20170925_r

簡単に言うと、ネットを介した映画館代わりとなる「場」を結んで上映・権利処理できるシステムを作り、それをグローバルに展開すべし、というアイディアだ。
この様々な「場」で映画鑑賞以外の様々な収益機会(PR活動や販売活動、懇親会など)を主催者が担えばいいではないか、ということだ。
先述の映画祭を「場」にしたプロモーション、というのもこれに当たる。

これは荒唐無稽でも何でもなく、実際、この間参加した上記東京ビッグサイトで行われた「大展示会」では、その基礎的なシステムを提供できそうな国内外の企業が複数参加していた。
おそらく彼らは、こういった「未来予想図」を自分なんかより詳細に描いているのだろうけれど、今は周りから賛同が得られないため、小さくなっているのだろうな、と勝手に思っている。
それは本来、「抵抗勢力」などといった大げさなものではなくて、もしかしたら「今と全く違うからよくわからない」くらいの無理解の層・・・それが連なって立派な抵抗勢力になっているわけだが・・・に阻まれて立ち往生しているのではないだろうか。

正直、保守的な日本社会にはあまり期待できないと感じている。
だからこそ、NETFLIXやグローバルなプラットフォーマーを目指す“大きな流れ”と軌を一にすることを期待する。
NETFLIX一社ではなく、複数社にサービス提供できるようなインフラが提供できればよりいいと思う(それは難しいのだろうか?)。

日本人や経産省などはよく「日の丸なんとか」といった国内勢で全て占められたサービスを期待しようとするが、(分単位の経営判断が要求される)今の世の中、それは諦めた方がいいと思う。

むしろ、グローバルなプラットフォーマーの一部になって、とか、そのプラットフォームを使って、といった“部分での戦い”をするしか、もはや我々に勝ち目はないのかもしれない。

「コンテンツ・イズ・キング」は幻か?⑦

自分は本来、映画祭はむしろNETFLIXと積極的に組むべきだと考えている。

映画祭や国際映画祭と呼ばれる映画視聴イベントは国内外に星の数ほどある(星の数は言い過ぎだが、数え切れなく有るのは事実だ)。
その多くは国や地方自治体などの援助を受けてようやく運営が成り立っている。

映画祭で作品が上映されるのはほんの1回か2回だが、その作品をするにあたっては、通常、「上映権料」を作品の権利者に支払う。
当然だ。なぜなら映画は「商品」であり、その映画祭の上映料が有償であれ無償であれ、本来、一般公開していれば権利者が得るはずの収入を失うことになるからだ。

だが、それなりに交渉力のある映画祭の場合、権利者(製作者)や制作者あるいは配給会社と交渉して、その「上映権料」を免除してもらう場合が有る。
映画祭で上映される作品の多くは一般公開やDVD化などが見込めないため、「映画祭に選んでもらって御の字」という製作者が相当いるのと、商業的な成功を強く求めている作品であっても、その映画祭での上映によって認知が広まれば逆に有難いため、あえてお金を取らず、実を取ろうとする製作者・配給者が少なくないのだ。
だから、映画祭でレッドカーペットを歩く海外スターの招聘費用なども含めて製作・配給側が持ち、代わりに映画祭側に「なるべくたくさんのメディアにアピールしてね」という“持ちつ持たれつ”の関係が発生したりするわけだ。
それは非常に健全な良い“WIN-WIN”関係だ、と自分は思う。

では、NETFLIX作品ではどうなるだろう?

NETFLIX作品は全世界の配給権をNETFLIXという「ちいさな劇場」限定で公開しなければならない。
だから、「あれ、良い作品だから、ウチの映画館で掛けたいなあ」という映画館主がいたとしても、NETFLIX側に拒絶され実現することはない。
(例外的なコラボ運営は有りうるのかもしれないが)

だが、NETFLIXが誇る“グローバルなマッチングシステム”にも限界が有る。映画や映像コンテンツは認知された上で興味を持たれないと“無いもの”に等しいわけだし、せっかくコンテンツホルダーになれた制作プロデューサーもプラットフォーマーである<以下、追加修正:NETFLIXも、どういった形であれ認知が広がり視聴者獲得(=商品購入)に繋がる方がハッピーなのは疑いようもない。>

であれば、他の映画祭作品同様に、「映画祭に無料で参加させるよ」「レッドカーペットを歩く海外スターの招聘費用も含めて×××が持つよ」「その代わりに映画祭側はなるべくたくさんのメディアにアピールしてね」という“WIN-WIN”関係は容易に成り立つだろう。

もっと積極的に言えば、映画祭で上映される映画のほとんどが海外の映画館で公開上映される機会はほぼ無い作品ばかりだ。それどころか自国の映画館ですら上映されない作品だってざらだ。
つまり、多くの映画祭参加者は、今の国内の映画制作プロデューサーなんかが思うのと同様、端からNETFLIX上映を望む人が多いだろうし、その「商品価値」向上のために映画祭を利用したい、と考える人がかなり多いだろう。
このニーズをうまく掬えてこそ、映画祭は権威主義者ではなくクリエイターや制作者に寄り添った存在になり得るのではないだろうか。

「コンテンツ・イズ・キング」は幻か?⑥

こと映画に関して言うと、限定先行試写会やそれに伴うPRイベントなんかが認知獲得のためのプロモーションとして常用される。
あるいは、国際映画祭等でのプレミアム上映が作品PRのために活用されている。

余談だが、世界の映画祭関係者の中にはこういった商業映画のPRを国際映画祭の場で行うことを“嫌悪”するような方々がいる。映画祭は芸術や文化を担うものであり商業主義に陥るわけにはいかない、ということがその理由だ。
若干の苦言を呈すようだが、申し訳ないがその閉鎖的特権意識には辟易する(全く理解しない、などというつもりまではないが)。

映画はほとんどの場合、お客様にお金をいただいてご覧いただく立派な「商品」だ。いくら“限られたマニアしか見ない”“通好みの”映画であっても、もし観客からの見返りを期待するのなら、それはハリウッドの大味なブロックバスター映画同様、まごうことなき「商品」だ。
より積極的に言えば、制作者とその近親者以外は全く知らないような自主映画であっても、将来的に他者の目に触れさせたいと願っている作品であれば、やはりそれも立派な「商品」だ。

映画祭に集められた玉石混交の、多くは一般市民の目に触れる機会がない映画たちも、ほとんどすべてが「商品」と言っていい。
であれば、そんな「商品展示会」の場で認知獲得のために商業的なプロモーションを行うことがなぜ嫌悪されなくてはならないのだろうか?

これまでずっと書いてきたように、今やインターネットが全世界に浸透しNETFLIXのような巨大プラットフォーマーたちが現れ、これまで石ころのように見向きもされなかった自主映画のような映像コンテンツ(=商品)までがグローバルな商業的発展可能性を秘めている時代だ。
商業的、と書いたが、それはとりもなおさず文化的にとも言えるし、他のクリエイターたちの創作意欲を喚起させるという点では、芸術的にも発展可能性が有ると言ってもいい。

昨年、カンヌ国際映画祭はNETFLIX上映が前提の作品『オクジャ』を最後の例外として、今後はNETFLIX作品をコンペ選考対象から除外すると発表した。今年も多くの選考作品候補が映画祭側とNETFLIX側で板挟みにあっているらしい。
自分は、これは相当「時代錯誤的」な考え方だと思っている。

作品に評価を与えることで作品の「商品価値」を高める魔法の杖を持つカンヌの権威主義者たちが、一般大衆の視聴履歴やAIなどという“得体のしれないもの”に取って代われないよう自己防衛しようとしているのではないか、という皮肉な見方さえしたくなる。