●Netflixとアマプラがぶち壊した「番組の国境」 あらゆる国の映像作品を現地の言語で楽しめる(東洋経済オンライン 2021/12/12 6:00)
https://toyokeizai.net/articles/-/474098

NetflixとAmazon Primeはコンテンツの製作(お金)の面でも制作(クリエイティブ)の面でも多くのメリット(予算の増額や、グローバルなチーム編成や企業間提携等々)を生んでいる、という記事。

「かつて”黒船”と呼ばれた海外映像配信サービスだが、各サービスが地域ごとの視聴者に向けたコンテンツ開発に力を入れた結果、日本でもクリエイターがより豊富な予算でものづくりできる環境が整ってきていた。が、状況はさらに一歩進んでいる。
制作予算が映像配信サービスを中心に回り始めただけではなく、映像制作にまつわるさまざまなノウハウ、サービス、あるいは人材に至るまで幅広く調達可能になってきたことで、映像制作の枠組みがより国際的になってきている。」
「良しあしはともかく、テレビ局を中心に巡っていた制作予算の流れが国内外の映像配信サービスへと移り変わり、むしろ日本人クリエイターにとっては才能を生かせる場が広がっていると考えられるからだ。」
(以上、上記記事より)

Netflixとアマプラは、国境を越えた視聴が可能な世界初の「世界テレビ」だ。
(ちょうど同日の日経記事『The Culture 文化時評』で「ネトフリは人類史上初の『世界テレビ』だとみる向きもある。」という紹介が有ったので、借用させてもらった)
コロナも一つの大きな背景として、世界の消費者はすでに「世界テレビ」をスタンダードな存在として認めつつある。既存のテレビや映画館での映画視聴、という枠組みは、残念ながら相対的にパワーを失いつつあるのが現状だ。
(一方で、米中対立という世界の分断の影響で、今後同様の拡大が続くとも言い切れないのだが)。

上記記事でインタビューを受けているNetflixの坂本氏の発言で、
「これからの5年で間違いなく起きるのは、映画や連続ドラマの制作、配信で”国境”がなくなるということ」
「どの国、地域の作品かは誰も気にしていない。AIによるおすすめなのか、あるいはキービジュアルが興味を引いているのか。作品ごとに状況は異なるが、スペインや韓国の作品がウケていることを考えれば、かつてのような制約はありません。バイヤーが間に入ることなく、ダイレクトに視聴者につながることで(作品そのものの)良さが受け入れられているのだと思います」
「以前ならば映画祭などで”誰かに見つけてもらう”ことがなければ、才能を披露する場を得られなかった。『パラサイト 半地下の家族』のポン・ジュノ監督がタランティーノ監督に”僕を見つけてくれてありがとう”とコメントしたが、世界中のクリエイティブを可視化することは不可能でした」
「作り手も刺激し合え、その成果もランキングという数字で見える。すると才能が見える化し、クリエイター同士のネットワークも広がります。世界の才能ある監督、撮影監督、脚本家、俳優が相互を認識することで、新しいクリエイティブが生まれるでしょう」
・・・とある。
自分がずっと考えてきたことは“正しかった”という思いと、そのような環境の実現に自分がほぼ“寄与していない”という悔しさ、残念な思いがある。

このブログを書き始めた2018年から、Netflix絡みの記事を何度か書いてきた。
初回記事の『「コンテンツ・イズ・キング」は幻か?①』~では、Netflixのようなグローバルなプラットフォーマーあってこそ「コンテンツ・イズ・キング」すなわち、テレビ局のような「流通側」ではない「クリエイティブ側」の価値が高まるのであって、権威主義的な映画祭などよりもNetflixのようなグローバル・プラットフォームの評価機能の方がフェアであり、そういうデータを得ることで、エンタメ・ファイナンス、コンテンツ・ファイナンスのニーズが高まるかもしれない、という希望観測を書いた。
2018年5月28日『NETFLIXに関する特集記事を読んで、雑記。』では、彼らが得る個人データと広告利用について。
2021年2月13日『アニメ業界・Netflixの急速な変化と「民主的」コンテンツ製作(考察)』では、3年前に『「コンテンツ・イズ・キング」は幻か?③』で書いた「Netflixはコンテンツの著作権を持っていかない」は間違いで、今の同社はスタジオ化を目指す方向だが、それでもがっかりする必要はなく、
「スタジオ・プラットフォーマー(流通側)とのパワーゲームの中で、“制作者・クリエイティブ側”は、ファイナンスや収益ウィンドウの面で、彼らに負けない武器を持つ必要がある」
という趣旨の文を書いた。
(他でも書いたかもしれないが、全部見直せないので、このくらいに。)

そしてそれらはすべて、「コンテンツ・イズ・キング」実現のためにエンタメファイナンス、コンテンツファイナンスを活性化させるべきだ!という議論につながる話だ。
結局、自分が2005年頃にコンテンツファイナンスを目指し、2007年以降コンテンツ業界に片足を突っ込んで以降、ずっと周りに語り続け、なおかつ、いまだに実現できていない物語に帰結するわけだ。

2013年に電子書籍で出版した『コンテンツファンド革命』では、第5章「変化の兆し」第1節“デジタル化”を軸にした大きな変節(b)流通プラットフォーム(Private)の変化、という箇所で、Netflixなどと競合業者とのコンテンツ争奪合戦が増加することで、コンテンツホルダー(権利者)は新しい様々な収益源を有られる可能性が有る、と書いた(当時は日テレのHulu買収前で、Netflixの存在感は今ほどではなかったため、同社への言及はやや少ないが)。
この本自体、そういった「新しい様々な収益源」を見越してこれまでよりも大きくカネを集め、コンテンツ展開をグローバルに考えるべきだ、という趣旨で書いたものだ。
その「大きくカネを集める」手段として、当時は「コンテンツファンドを」という主張だった。

このブログで何度も書いているように(例:2021年11月13日『世界に広がるデジタル証券取引と映画ファンド考』)、最近ではむしろ、デジタル証券のSTOと二次流通(PTS)の活用という方向性に大いに可能性を感じると同時に、NFT活用など、マーケティングも絡めたトータルなビジネス構想を思い巡らせている。
このブログでもSBIを筆頭としたデジタル証券とSTO構想や、そこでの映画版権取り扱いの可能性については何度も言及してきた(例:2021年10月20日「大阪金融都市構想-新PTSの続報と『新しい金融』」)。
STOは、流通先が決まっている「新作」(製作段階)でも、すでに「旧作」となった作品(新規の流通段階)でも可能だろう。
この際、これまでのキャッシュフローのデータや想定キャッシュフローなどに基づき、STOやセカンダリー段階で、どう適切なディスクロージャーを行うか、など、いわゆる金融側の目線も重要になるはずだ。
コンテンツファンド革命』で自分が主張したことが、デジタル証券という枠組みで実現する可能性は大いにあると思っている。

問題は・・・自分が現在、その「現場」に居ないことだ。

話は変わるが、上記記事で参照したN社のSさん(記事では実名)とは、これまで何度かお会いしてお話しした。と言っても、彼がN社で働くずっと前の話だ。
最初は、自分が働いていた東京国際映画祭で開催された企画マーケットの絡みでお会いした。確か2009年とか2010年で、もう10年以上も前。当時、日本とLAを股にかけたコンテンツビジネスを志向するSさん含む彼らチームのアグレッシブさに感化されたものだ。
(チームの一人はその後、大手に入り、某有名アニメ原作映画などでプロデューサーとして活躍してこられたようだ)
その後、自分が周りの方々と一緒にコンテンツファンドを対象とした第二種金融商品取引業の会社を興そう、としていた頃(だから、おそらく2011年か12年だと思うが)にもお会いした。
その時、Sさんはアジア系コンテンツ企業で日本のテレビ局との共同制作案件に関わっておられたはずだ。その際、当時の我々のコンテンツファンドへの取り組みの話をしたほか、自分のオリジナル企画『真央ちゃんになりたい』の脚本をお渡しした記憶がある。
そこから10年近くが経って、我彼の差たるや。いやはや。

別に“やっかみ”を言いたいたわけではない。
むしろ、上記インタビューでS氏が言う5年後、「映像コンテンツの制作・配信(配給?)で国境がなくなる」頃には、一方でSTOやセカンダリーマーケット、グローバルな広がりも伴うコンテンツファイナンス領域が育っているべきではないのか、ということだ。

この前、2021年11月13日 に投稿した『世界に広がるデジタル証券取引と映画ファンド考』で書いたように、
「今回のデジタル証券としてのエンタメ、という流れは、横の広がり(グローバル)も縦の広がり(ファンマーケティング)もある。
さらに、NFTにも話を拡げれば、クリエイティブ側への還元という流れも後押しされてくる。」
と思っている。

先日、自分が考えるプランのひな型段階のものを、複数の方々にお渡しした。とりあえず、周りに声掛けして、なにがしかのご意見をいただこう、という程度の、ほんのさわりの話だ
(特に、組成面は自分自身も不案内で、もっと知識を得なければ、という立場でもあるし)。
今はこの程度の動きしかできないが、こういった巻き込みの先に、なにがしかの展開があれば、と思う次第。