●アメコミ映画「何作出ても」ヒットが続く理由 著作権を出版社が持ちストーリーを「いじれる」(東洋経済ONLINE 2021/01/05 15:00)
https://toyokeizai.net/articles/-/397580

ハリウッド映画『オール・ユー・ニード・イズ・キル』をプロデュースし、内閣府クールジャパン官民連携プラットフォームアドバイザリーボードメンバーでもある福原秀己氏の記事。

福原さんは自分がメリルリンチ日本証券にいたときのエグゼクティブで、自分がコンテンツ業界を目指して以降、これまで何度かご相談に伺った(一度は、サンフランシスコまで押しかけて行ったこともある)。その都度、邪険にもせず真摯なアドバイスをしていただいた。とても感謝している。

記事内容は、
・『スパイダーマン』『アベンジャーズ』などアメコミ出版社マーベルは映画化、アニメ化、マーチャンダイズ化などで世界規模の経済を持つコンテンツ企業となった
・アメコミのコンテンツの強さは、①キャラクターが品行方正で不老不死②経済的価値が減価しない③ハリウッド映画にストレートになじむコンテンツ④出版社が著作権を持っている、という点だ
・この①~③は日本のマンガ・アニメも同等だが、④が違う。この“出版社が著作権を持つ”ことが「キャラクターが不老不死である」ことを可能にしている
・アメコミのシリーズではキャラクターは引き継がれ、活躍し続け、成長もしていくが、作家は随時入れ替わり、ストーリーとイメージ(絵)も頻繁に変わる
・一方、日本のマンガ・アニメは『鉄腕アトム』といえば手塚治虫氏、『ドラゴンボール』といえば鳥山明氏であり、ほかの作家が描いてキャラクターが進展していくことはない
というものだ。

この記事にあったが福原さんは『2030「文化GDP」世界1位の日本』(白秋社)という本を出されており、そこで「現代はコンテンツが世界経済を動かす時代」「2030年、日本は工業製品ではなくコンテンツの輸出大国になる」と述べておられるようだ。
(“ようだ”なのは未読なので。さっき購入したので、これからちゃんと読ませていただきます!)

日本のマンガ・アニメ人気や最近の80年代シティポップブームなど、日本発のコンテンツが世界のコアなファンを獲得してきたことは事実で、日本が今後コンテンツの輸出大国になる、という期待は大いにあると思う。
このブログで「コロナ後の映画産業をぐるぐると考える」などでも書いたように、これからは“映画”の定義が拡大し、コンテンツビジネス自体がよりマルチなウィンドウでの流通やインタラクティブ性(ファンとの交わり)を包含した横断的な傾向が強くなると思う。
場合によっては、「デジタル証券のシンガポール集中とエンタメファンド」などでも書いたように、“インタラクティブ性”の担い手の一部は「STO」を介した金融ビジネス領域になるかもしれない(というか、自分はそれに期待している)。

だからこそ、強力なコンテンツを軸にした統合的なビジネス主体(やビジネス推進者)が必要になってくる、と思われる。
例えば、中国のテンセント(子会社)はメディアの川上から川下を押え、かつ、まだ手あかがついていない原作を抱え込む「メディアコングロマリット」になっている(今や海外の音楽レーベルも買い漁り、コンテンツを軸にエンタメビジネスの領域で網羅的に稼げる体制をグローバルにも構築しつつある)。
日本はすでにコンテンツ・メディア業界が分化しているので、メディアコングロマリット的な方向性よりは、むしろ複合的に企業が集まってビジネス推進をする形が現実的に思う。ただ、それは今の映画の「製作委員会」のような“寄り合い”ビジネスではなく、「株式会社ポケモン」のようにクリエイティブの核を担う者とビジネス推進企業が統合されたビジネス形態が理想的なように思う。
上記福原さんの記事では、アメリカではそれが出版社「マーベル」だ、ということなのだろう。

ただ、この議論の中で、どうしても感情的にわだかまってしまうことがある。それは「ゼロをイチにする(した)人」への眼差しの欠如だ(「1を10にする」過程でのクリエイティビティに関する同様な思いもあるが)。

コンテンツの生育過程には3段階あるとしよう。
1つは「ゼロをイチにする」。起案者である、原作者や脚本家などクリエイターやストーリー・キャラクター概案を持つプロデューサー等だ。
2つ目は「1を10にする」。起案された企画を練りこみ、作品としてビジネスユニット(手前)までもっていく、主にプロデューサーやクリエイターだ。
3つ目は「10を100にする」。作品をきちんと“商品”として拡販していく、映画でいう製作委員会などだ。

この場合、どうしても第3段階のメンバーの力が強くなる。場合によっては「ゼロをイチにした」第1段階の、本来大きなクリエイティビティを発揮した者の意見が取り入れられず、あるいはまったく“ハブられて”しまう可能性もある。

すごく矮小化した事例で恐縮だが、もう10年以上前に自分は『跳べ!サトルッツ!』という脚本を書いて、それが角川の「エンジェル大賞」に選ばれたことがある。
この物語は、当時勤めていた会社を辞めてすぐに、昔の先輩が趣味のフィギュアスケートにハマっている話を聞き、それをヒントに、人生をポジティブにとらえて書いたのだが、そこにはなんとなく、今に通じる自分自身の想いやスタンス(「Life is entertainment!」)が投影されていたように思う。
この企画はとあるインディペンデント系映画プロデューサーご協力の下、何度も脚本を練り直したり、とある有名映画監督に打診したり、商業映画化に向けいろいろなチャレンジを行ったが、なかなか前に進まなかった。

そんな時、某大手広告代理店に勤める古い友人から「少し動いてやろうか? そのかわり、お前は原作とかからも外されると思うけど」という声をもらった・・・古い記憶なので詳細どころか、この打診が具体的にどんなことだったかすら定かでないが(確か、「実在するモデルがいるんだよな?」ということが重要だった記憶がある。実際には“昔の先輩”はモデルではなく、あくまでもインスピレーションの素にすぎなかったので、「yes」とも「no」とも言えなかったが)。
その時は「(自分はとにかくこの物語を世に出したいので)クレジットとか関係ないから、ぜひお願いしたい」と答えたが・・・すぐに後悔した。
自分が物語を作った“想い”のようなものを説明する機会もなく、企画を“取り上げられて”しまい、自分の手が及ばないとろで事が進んでしまうのではないか? そう不安に思ったのだ。
結局、この友人ルートは、彼がどう動いたか(あるいは、まったく動かなかった?)もわからないまま、なんとなく終わってしまったので、この心配は杞憂そのものだったのだが。
いずれにせよ、自身の力及ばずで、この企画を商業映画化することはできなかった。

このケースでは、自分は「ゼロをイチに」した脚本家(クリエイター)でもあり、「1を10に」しよう、とするプロデューサーの立ち位置でもあった。
作品を実際に商業映画にし、付随ビジネスを含めた経済活動に発展させていこう、と思えば、当然「10を100に」するビジネスユニットの参加が必須だ。
でも、このケースのように、ビジネス側からは「原作とかからも外される」可能性がすくなからず(大いに!)あるのだ、ということに気づかされ、恐怖に近い感情が起こったことを覚えている。

アメリカでは、原作を書いた脚本家やプロットライター(「ゼロをイチにする人」)が映画製作を約束されているビジネスユニットに物語を譲渡し、大きな金銭的対価を得る代わりに、「脚本家」クレジットどころか「原作」「原案」といった位置からも全く外れて“居なかった”ことにされ、代わりにビジネスユニット内の有名脚本家がクレジットされる、といったケースが少なくないと聞く。
日本と違って著作者人格権の要素が薄く財産権的要素が大きい著作権法を持つアメリカや中国のような国では有りがちなことなのかもしれない。
(あくまでもこれは自分の理解で、法律論として正しいかは専門家にゆだねたいが)
一方、著作者人格権が強めとされる日本では、ビジネスユニット側の“圧力”で「“ゼロイチ”クリエイター」が除外されて元の作品とは“別物”として進められ、かつ、金銭的対価も望めない、といった、むしろクリエイターにとってアゲインストな傾向すら有るのではないだろうか。

おそらく、福原さんなら「そんなことはよくわかっている。クリエイティビティ(や想い)が土台にあることは大前提だし、それはここで書いているビジネス面での話とは別の問題だ」とお返しになるだろう・・・というか、なんとなく実際に以前、そんな話をしたような気がする。
上記マーベルの例では、『ハルク』などマーベル作品の原作者スタン・リー氏とマーベル社は切っても切れない関係性だったし、おそらくマーベルにはスタン・リー“イズム”のようなものが行き届いているだろうから、ことマーベルに関しては自分の心配は当てはまらないかもしれない。

だが、特に日本のコンテンツビジネスでは「ビジネス側」は単なる搾取者になるきらいもある。
すごくストレートに書くと、たとえばマーベルが著作権を持つのと同じ感覚で日本の大手出版社に著作権を集める、といった政策がとられるようなら、それは大間違いだと思う。
また、個人的には中国のテンセントがこれから世界のコンテンツビジネスを牛耳っていく可能性にやや不安を感じていたりもする。
昔、このブログの「コンテンツ・イズ・キング」は幻か?」(①~⑨)で書いたように、これから構築されていくであろう新たなグローバルなコンテンツ製作・流通のエコシステムにおいて肝になるのは、あくまで「コンテンツ・イズ・キング」思想であり、「“ゼロイチ”クリエイションへのリスペクト」が大前提である、と思う。

福原さんがおっしゃる「2030年、日本は工業製品ではなくコンテンツの輸出大国になる」という主張が実現するためにも、形態が「株式会社ポケモン」であれ「マーベル」であれ、“ゼロイチ”クリエイターへのリスペクト(むしろ、中心的・積極的な「参加」)を前提にするビジネスユニットがビジネスを担う体制・業界内常識の構築が必須である、ということを改めて強調しておきたい。

<以下、2021/1/8追記>
遅ればせながら、福原秀己著『2030「文化GDP」世界1位の日本』を読了。幅広い考察と具体的データに富んだ良著だ。いろいろ参考になる箇所が多く、これからも何度か繰り返し目を通すことになるだろう。
特に「クロスオーバー」「ファンダム」「ニッチリッチ」といった観点で社会とコンテンツビジネスを読み解く考察は興味深かったし、自分が考え、動いてきたビジネスアイディアも、そういう傾向の中にある気がしている。

なお、通読してわかったのだが、この東洋経済ONLINEの記事は本の内容の一部分を切り取ったにすぎず、決して福原さんは「アメコミ、マーベルの強みは著作権を持っていること。だから(“不老不死”たるために)日本もそうすべき」とは書いてはいない。
むしろ、「日本のマンガの強みはストーリーとキャラクターの創作であり、キャラクターのみを創作するマーベルのアメコミとは異なる(意訳)」「独断でいえばマンガの究極の価値はストーリーの方である」と、作家の持つクリエイティビティをマンガの優位性として説明している。
なので、自分が書いたこのブログ内容は読み方によっては誤解を招いてしまうかもしれず、“追記”として言及することにした次第。
<追記終わり>

ところで、自分は当社の代表者略歴にもある通り、これまで複数のオリジナル映画企画を実現させようと動いてきたが、結局、うまく行っていない。
これまでは、(以前、尊敬する某プロデューサーから「クラシカル・オーサー(=原著作者)の立ち位置は大事にしなさい」と忠告されたこともあり)脚本など「著作物」となる物語を自分が書いて、その後、業界内でビジネスユニット組成の取り組みを行う、という活動を繰り返してきた。

これは結構大変なことで、まず、物語を脚本や小説に書き著すこと自体、ものすごいエネルギーと時間を要する。これを一人こつこつ孤独に行っていくこと自体、非常に労力のいる作業だ(その間の生活のための金も必要だ)。
その上、ようやくできた脚本を企画書に落とし、業界内のプロデューサーなどに話を持っていくと、残念ながら無名の執筆者が書いたオリジナルの物語など、まず誰からも見向きもされない。企画書は読んでも、脚本を実際にきちんと読んでくれた人など、過去にいたのかすら怪しい。
また、こんなことを言うと恐縮だが、脚本を(書いた自分の意図通り)ちゃんと読むことができる人も、あまりいなかった気がする・・・自分の脚本力のなさを棚に上げて、言い過ぎかもしれないが。

だから自分は、次第に「ゼロをイチにする」より「10を100にする」力を持つ必要がある、と考えるようになった。クリエイションを諦めたわけではなく、むしろビジネスそのものにクリエイティビティを発揮すべきだと考えたのだ。
自分は元々コンテンツファイナンスを志して金融ビジネスの領域からコンテンツ側に飛び込んだ人間なので、まずはそこで立ち位置を確立したいと考えた。
その後、コンテンツファイナンスのほか、いろいろなビジネスのチャレンジを自ら行い、ほかの方々のチャレンジに乗ったりもしてきたが、この「ビジネス領域で力を獲得する」という目標自体、まったく遂げられていないのが現状だ。
ただ、これまでの様々な方々を巻き込んできたチャレンジの変遷は、(例えば、『跳べ!サトルッツ!』を書く動機となった、退職をしなかった場合と比べ)大きな財産を自分に与えてくれたと思っている。

例えば、たまにではあるが、いろいろなところから“相談”をもらえるようになった。
昨年の夏ごろに、とある方から「新しいコンテンツ・プラットフォーム」の相談を受けた。その方は、これからの映画やドラマなどの製作・流通は(映画会社やテレビ局など“オーソリティ”側を離れ)より“民主化”していくはずだ、という前提のもと、新しいビジネスを立ち上げる計画を持っておられた。
確かに、今は作品投稿サイトやYoutubeなどでバズった、ある意味まだ未熟な(immature)コンテンツがネット上で支持者を集め、それがより大きなコンテンツと化していく、という事例が増えている。

思えば、これまでの自身の映画企画を顧みると、“民主化”とは真逆のプロセスだったな、と反省したりもする。
例えば、これまで一人孤独に行っていた脚本を(制作過程から?)投稿サイトなどで“みんな”と共有していたら、結果はどうだっただろう?
あるいは、閉ざされた業界内の映画プロデューサーや芸能関係者だけでなく、もっと幅広い先に投げかけ、サポーターを構築できていたら?
全部、タラ・レバなので、今さら言っても仕方がないのだが・・・とにかく、そういう反省も絡め、その方にはいろいろと意見を申し述べた。
一方で、現段階ではオーソリティ側の有力プロデューサーの関与などは必要では? などといった、若干後ろ向きなアドバイスも行った。
(ちなみに、この方のプランを自分の「徳の経済圏構想」に巻き込みたい、と、やや強引な提案を行ったりもしたが、思えば先方にとってはご迷惑だったかもしれない。)

自身、今も「ビジネス領域で力を獲得する」目標は変わらず掲げており、(富裕層ターゲット金融ビジネスとの関連で)前に進めていきたいと思っている。
一方、映画・ドラマというクリエイションを全く諦めているわけではない。
このブログでも何度も書いているが、今、日本の戦国時代と後期倭寇などについての関心がすごくあり、『天下の秤』という物語を打ち出そうとしている。これはまだ「ゼロイチ」どころか「1未満の小数点」という段階だ。

これまでの自分のクリエイション・プロセスからすると、このような初期段階でこんな風に開示したり、周りに話を持っていくことはなかった。しかし、この企画に関しては、すでに何名かの人(特に金融ビジネス関係者などの、直接、映画やドラマの製作に関係ない方々)を中心に、「こういう物語を作り、こういうビジネスを推進したい」という話をしてきた。
一つには、物語の規模がこれまでのものと比べて壮大すぎるため、単純に意見をもらいたかったというのがある。また、民主化(“みんな”への開示・共有)からは程遠いが、このimmatureな段階で多少は共有し、関心を得、できれば「味方」を得たい、という期待もあってのことだ。

最終的に『天下の秤』を軸にしたビジネスユニットができ、STOなど金融ビジネスも包含した大きなビジネスプロジェクトに発展できれば・・・まだ年始で正月気分なので、こんな大言壮語もお許し願いたい。