1か月以上ぶりの投稿になる。
さて、先日、仕事の関係で、東京国際映画祭の一環で文化庁が主催し自分が昔所属していた公益財団が共催するシンポジウムに参加した。仕事、といっても長らくチャレンジしてきた映画やコンテンツファイナンスのビジネスではなく、仕事仲間から回してもらったライター的な仕事だ。
おかげさまで、会場では(もちろん、自身の仕事を終えた後に)数名の古い知人に会い、近況報告等々をさせていただき、ありがたかった。

このシンポジウムのテーマが「国際共同製作」。つまり、日本の映画を海外の国と一緒に製作(合作)することと、それに伴う資金集めについての話だった。
実は、くだんの公益財団法人で働いていたころ担当していた仕事の一つがまさに「国際共同製作に伴う各国の政策的支援の仕組みの研究」で、自分が英文図書やインターネット情報などをもとに各国の事例を調査し、それを上司やオブザーバー参加の弁護士の先生方、有志でご参加いただいた業界の映画プロデューサーの方々にお伝えし、情報を共有し、そのメンバー内で様々な議論を交わした。

今回のシンポジウムは、その公益財団のトップが語る「国際共同製作に対する現在の国の取り組み」だったり、長年、中国で国際共同製作の窓口をしてきた方の「日中での国際共同製作」、フランスとの国際共同製作の指南者による助成金などを活用した「日仏共同製作」などが講演された。また、ご自身の国際共同製作作品ほかで世界的注目を集める映画監督で、インディペンデント映画人が集うNPO法人の中心的存在でもあり、積極的に映画の政策提言をしてこられた方や、これまで数多くの国際共同製作作品のプロデュースをしてこられた映画プロデューサーを交えたパネルディスカッションが開かれた。

今、自分はコンテンツファイナンスや国際共同製作といった領域からは離れてしまい(機会があれば携わりたいが、残念ながらそんな話が舞い込まない)、一方で新たなビジネスの立ち上げを志しているのだが、シンポジウム登壇者の話を聞きながら、ムネアツというか、熱く感じるものがあった。
(盛んに語られるフランスの国際共同製作の助成金制度の説明を聞いて「そうそう、そんなシステムですよね。いや、懐かしいなあ」などと思ったり)

さて、登壇監督はじめ国際共同製作に関する日本インディペンデント製作陣の論調はおおむね以下にまとめられる。
【現状】日本の映画産業は大手が独占し、映画の多様性を阻害している
【問題】そのため制作現場は疲弊しているが、中堅、小規模映画製作陣の灯を消すべきではない
【解決策】これを解決するために、海外に倣って政策的支援が必要だ。特に、文化助成に立脚した「助成金」を充実させるべきだ

これは長年訴えられていることで、現状分析、問題意識について、自分もその内容や思いにシンパシーを大いに感じている。しかし、解決策である「助成金」については、常に「気持ちはわかるけど、それってどうなんだろう?」と常に感じてきた。

自分が電子書籍で2013年に出版した『コンテンツファンド革命』でも、自分なりにあるべき政策的支援について考えを述べている(第4章「政策面での課題」)。この本の内容自体、【現状】と【問題】については同じ主張を書いているので、監督と自分の考えの違いは【解決策】についてだけだと思う。
自分の考えはこうだ。

【解決策】これを解決するために、日本独自の政策的支援が必要だ。経済・文化的相乗効果を狙う「税制優遇映画ファンド」とインディー支援のための「寄付税制」(認定NPOなど有効活用)の重層活用が考えられるが、そのためには映画投資家層を広く育てる必要がある(そのためには金融ビジネスの活用が重要)。

自分は金融の出身で、映画の世界に携わってからもビジネス志向を堅持してきた。様々な文化的取り組みに「金儲け」が絡むことをポジティブにとらえている。ただし、それが限定した人たちの「金儲け」になるべきではない、と思っている。

本文の中に、以下のような文章を書いた。
 この章を読まれた方の中には、読んでいて違和感を持たれた方も多いかもしれません。この本では「文化多様性を保持するためにも、良質な商業映画を作れる市場環境を整えるべきだ」と説いてきましたし、そのためにコンテンツファンドを通じて外部からの資金を映画界に還流できる仕組みが必要だ、と主張してきました。これを裏返すと、現状は、文化多様性が脅かされるほどの危機的状況なわけであって、「政策的支援を語るなら、まずは“文化支援”の観点からスタートすべきではないか」とお感じになられる方も多いのではないかと思うのです。これまで書いてきた税制優遇映画ファンドやその認定監査プロセスの説明が、余りにも“ビジネス寄り”に過ぎる、とお感じの方もいらっしゃることでしょう。
 もし、そういうご指摘が有れば、そのお言葉は甘んじて受け入れたいと思います。ですが、敢えてへそ曲がりな意見を言わせていただければ、“文化支援”のためには“産業支援”が必要ではないか、と思うのです。
 もし、「大規模商業映画に駆逐されそうな小規模映画を“文化支援”のために助成しよう」ということになると、助成金にしても、仮に“映画税”のように固定のお客様から財源を徴収するような方法にしても、国民の負担が生じることは間違いありません。また、芸術性や文化的価値といった、評点の付けがたいものが審査対象ですから、この審査は審査員側の主観に依ることになります。特に“反商業性”といった変に歪んだバイアスがかかり恣意的な選別がなされた場合、そこで選ばれた映画は・・・言葉は悪いですが、“特権的保護映画”になってしまうのではないでしょうか?

“特権的保護映画”などと聞くと、「ふざけるな! 映画芸術を解せないサルめ」「銭の亡者のサクライ、許すまじ!」など各所からアレルギー反応が来そうで怖いが、それでも“銭の亡者”の姿勢を堅持するのは、自分なりに大局的に考えてのことだ。
国庫からお役人や限られたメンバーにいいように(?)使われるよりは、民間資金を流入させ、お上がサポートする形のほうが健全だし多額の資金獲得が期待でき、多様な先に回る“可能性”がある。

さりながら“可能性”はあくまで可能性であって、これを実現するためには「映画投資愛好者」の輪を広げ、映画等へのパトロネージュ文化を国民的に醸成する必要がある。これは、さりながら大変な難題だ。
「偉そうなことを言うけど、サクライは映画に金を集められるのか?」「本でいろいろ提言しているけど、彼は評論家や解説者のつもりなんでしょうね」などと言われてしまうかもしれない。
これまで実績を出せなかったことに、誠に深く恥じ入るばかりだ。でもね・・・「俺も、見えないところでずっと頑張ってきたんっすよ~!」(涙目)

この『コンテンツファンド革命』という本は、映画・コンテンツ投資専門の第二種金融商品取引業者の設立を目指した際に書いたもので、もともとはその会社を土台に広く各所を巻き込んでいければ、と思っていた。そこで「政策的支援研究会」という会を催し、弁護士先生など様々な先にアプローチもした。しかし、同社は二種金をとったものの自分はそこから離れる結果になったし、同社の取り組みも大きなものにはならなかった。
その後、地方の映画祭の仕事を経て、「フランズ・アフマン・プロジェクト(※1)(※2)」と称した、自分の周りにいる富裕層をターゲットにする金融ビジネス従事者を巻き込んで、映画投融資の事業を興して投資家コミュニティーを形成する、というビジネスプランを各所に持ち込み、巻き込みを図った。けれど、これもうまく結実できなかった。
その後、中国資本の会社で国際的な映画製作ビジネスを! というプロジェクトにかかわった際も、グローバルな総合コンテンツファイナス事業をめざして、やはり人を巻き込んでは見るものの、期待した方向には進まず、とん挫した。

※1 フランズ・アフマンは1970年代以降にプリセールスを活用した融資でスタジオ制作以外の欧米のインディペンデント映画の資金調達に貢献した銀行家(インディペンデント映画といっても、日本とは桁違いの金額で作られている)
※2 この「フランズ・アフマン・プロジェクト」では、ファンドや純投資だけでなく、海外助成金等々を根拠にした融資や、投資型(11/22修正→融資型)クラウドファンディングの活用、目の肥えた映画投資家に限定した企画段階でのリスクマネー供給のためのファンド、日本独自の完成保証制度案などのスキームを提案していた。また、政策的支援としての税務的な案(馬主制度などを参考に)も考察した

今でも、「サクライさんは映画とファイナンスを結び付けようとしてるの? ありがたい!映画の企画があるんだけど、投資家を紹介して」などとお声掛けいただく。
申し訳ないが、自分には今、確固たる資金調達能力はない。もちろん、企業PRやM&Aふくめ“よろず営業マン”として生きているので、営業活動はできるし、全く期待できないわけではないのだけれど。
「映画という“投資案件”はほとんど儲からないし、儲かる映画には投資できない」「社会的意義だけで投資する投資家はまずいない」という、昔からある大きな壁は、いまだに大きな壁なのだ。

さて、このままだと、昔語りをして、かつ、その取り組みをあきらめた、という悲しいだけの話になってしまう。

当社について

このホームページのトップページにあるように、現在、自分は「Selamat!(スラマット)」というプラットフォームを開設し、「アド・コマース(広告付き販売)」というマーケットを生み出し、拡大していきたいと考え、各所の巻き込みを続けている(そして、これまでの取り組み同様、なかなか前途多難な状態でもある)。
映画への投融資へのチャレンジから、いきなりネットビジネスやアドテクの話になり、「“銭の亡者”サクライは趣旨転向してベンチャービジネスに取り組もうとしてるんやなぁ」と思われるかもしれない。

しかし、実はこれは、これまでの取り組みと地続きでつながっている、と自分は思っている。
アド・コマース(広告付き販売)には、クリエイターやアーティストが提供する商品を介して、お金を出す人(企業・個人)は純粋に”応援”することで高質な認知効果を得、クリエイターやアーティストのファンに自分たちのファンになってもらい、ロイヤルカスタマー化する狙いがある。
ここで必要なのは、こういった“応援者の輪”を広げることだ。自分が『コンテンツファンド革命』で主張した「映画投資愛好者コミュニティー」よろしく、「応援者コミュニティー」を形成することだ。ただし、この応援者コミュニティーは金銭的な参加ハードルはぐんと低いし、応援対象は映画に限定されない幅広いものとなる。自分がアーティストなどを応援することで第三者のファンに喜んでもらう、という「”徳”の経済」に賛同し参加する企業と個人たちのすべてが、応援者コミュニティーの構成員となるのだ。そんな輪を広げていきたい。
こと映画に関して言えば、応援者の輪の一部がクリエイターたるインディペンデントの映画監督などへの支援に発展し、その映画への投資家に発展するようなことが期待される、かもしれない。

心ある、映画を映画として保ちたい方々からは、「サクライの考えは、あまりにビジネス志向的すぎないか」と言われてしまうかもしれない。でも、今、映画やテレビという“土台”そのものが大きく変わりつつある。
NETFLIXやYOUTUBEなどが映像ビジネスを根底から揺るがせつつあり、GAFAら大手IT企業が個人データの活用を軸に巨大化し進化しづけており、例えばGoogle陣営のアドテクを駆使した広告モデルが世の中に蔓延している現在、「映画」や「テレビ」といった産業は、まったく時代遅れになってしまった蒸気機関車みたいに映ったりもする。
だが、その“純粋な中身”の力(つまり物語や表現など。これを「コンテンツ」というと曲解されかねないので、あえてこう書く)は媒体がどう移り変わろうと、もちろん、何ら変わらないはずだ。
結局は、アーティストやクリエイターといった「個」が力を発揮し、人々に影響を与えることで、世界に新たな価値が生まれ、それが新たな社会を構築していくのだ。自分はそう信じたい。
(そうでなければ、結局はプラットフォーマーや国が世の中を恣意的に操作、構築していく、という観念から逃れられない)

だから、アド・コマース(広告付き販売)の力で、個の創造性と影響力が評価でき、それを応援する人たちも「“徳”があるなぁ」と尊敬される世の中をもたらすことができれば・・・。
書いていることが壮大すぎて失笑されるかもしれないが、その実現のごくいったんでも担えれば、と、僭越ながら思っている次第、、、であります。

続く