「コンテンツ・イズ・キング」は幻か?⑥

こと映画に関して言うと、限定先行試写会やそれに伴うPRイベントなんかが認知獲得のためのプロモーションとして常用される。
あるいは、国際映画祭等でのプレミアム上映が作品PRのために活用されている。

余談だが、世界の映画祭関係者の中にはこういった商業映画のPRを国際映画祭の場で行うことを“嫌悪”するような方々がいる。映画祭は芸術や文化を担うものであり商業主義に陥るわけにはいかない、ということがその理由だ。
若干の苦言を呈すようだが、申し訳ないがその閉鎖的特権意識には辟易する(全く理解しない、などというつもりまではないが)。

映画はほとんどの場合、お客様にお金をいただいてご覧いただく立派な「商品」だ。いくら“限られたマニアしか見ない”“通好みの”映画であっても、もし観客からの見返りを期待するのなら、それはハリウッドの大味なブロックバスター映画同様、まごうことなき「商品」だ。
より積極的に言えば、制作者とその近親者以外は全く知らないような自主映画であっても、将来的に他者の目に触れさせたいと願っている作品であれば、やはりそれも立派な「商品」だ。

映画祭に集められた玉石混交の、多くは一般市民の目に触れる機会がない映画たちも、ほとんどすべてが「商品」と言っていい。
であれば、そんな「商品展示会」の場で認知獲得のために商業的なプロモーションを行うことがなぜ嫌悪されなくてはならないのだろうか?

これまでずっと書いてきたように、今やインターネットが全世界に浸透しNETFLIXのような巨大プラットフォーマーたちが現れ、これまで石ころのように見向きもされなかった自主映画のような映像コンテンツ(=商品)までがグローバルな商業的発展可能性を秘めている時代だ。
商業的、と書いたが、それはとりもなおさず文化的にとも言えるし、他のクリエイターたちの創作意欲を喚起させるという点では、芸術的にも発展可能性が有ると言ってもいい。

昨年、カンヌ国際映画祭はNETFLIX上映が前提の作品『オクジャ』を最後の例外として、今後はNETFLIX作品をコンペ選考対象から除外すると発表した。今年も多くの選考作品候補が映画祭側とNETFLIX側で板挟みにあっているらしい。
自分は、これは相当「時代錯誤的」な考え方だと思っている。

作品に評価を与えることで作品の「商品価値」を高める魔法の杖を持つカンヌの権威主義者たちが、一般大衆の視聴履歴やAIなどという“得体のしれないもの”に取って代われないよう自己防衛しようとしているのではないか、という皮肉な見方さえしたくなる。

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