PC MUSIC

最近、断捨離を進めていて、身近ないらないCDや本などを古本屋に売ったりした。

一番驚いたのが、満を持して(?)売りに行った雑誌『PC MUSIC』が1円にもならなかったことだ。

『PC MUSIC』は今の『Sound And Recording』同様(って、今も有るのかは知らないが)DTMの教科書的な雑誌で、1996-7年に発行されていた。DTMでの作曲、録音技術や、一流ミュージシャンのインタビューなんかが載っていた。坂本龍一、細野晴臣、佐野元春、電気グルーブ・・・等々。

付録のCD-ROMには楽曲のMIDIデータやインタビューの(確か)音声データだったり、お得情報が満載だった。

自分はその創刊号から最終号まで全て、CDも含め全部そろえていた(しかも、CDは1つを除いて未開封状態)。

この雑誌、今は廃刊だし、バックナンバーもなさそうだし、資料的価値も有るし、マニア垂涎になるのでは?! と、勝手に思っていたのだが・・・。

 

「申し訳ありませんが、全く価値なしです。雑誌の方は情報が古くて価値がなく、以前は付属CDにはニーズが有ったものの、結構、コンテンツがネットで出回っていて・・・。うちでも以前は扱っていたのですが、もうすっかり出回ってしまった感が有りまして」

 

がっかり(笑)!

でも、せっかくずっと捨てずに持っていたので、タダで引き取っていただいた古本屋さんも、ぜひ捨てずにセット売りしていただければ有難いです。

 

考えてみれば、昔それなりの値段で買ったMIDI(とWAVE)シーケンサーソフトも、初音ミクの登場以降、今やほとんど無価値になったし、結構高かったMIDI音源も今やソフトシンセの時代のようで大暴落しているというし。

自分なぞは元々、“なちゃって”でDTMを始めたので、技術の進化についていけないまま10年以上全く触れずにいたら、完全に浦島太郎状態になってしまったわけだ。いやはや。

 

この一連の出来事で、音楽という嗜好性の高い、一件、マニアで溢れていそうな世界でも、「陳腐化する技術」「コピー可能なコンテンツ」の価値は、あっという間になくなってしまうのだな、と思い知った。

 

というのは、一方では、同じように売りに行ったギターの教則本やバンドスコアなどは、それなりに値がついたので。おそらく、こっちには、音楽を始めたての若者や、「青春の夢よ再び!」のオッサンたちからの熱く確かなニーズが有るのだろう。

 

ビンテージギターの値段がめちゃめちゃ高いのも、ユーザーにとって「ギターを弾く」という行為自体の“技術”は何10年たっても全く変わらない(演奏者側に大きく委ねられている)ため、装置(ギター)自体は、周りの革新的な進化によって価値を失い暴落することがないからだ。

MIDI(および音声データ)シーケンサーやハードウェアとしてのMIDI音源が、技術革新の波にさらされてあっという間に陳腐化してしまったのと対照的だ。

 

一方、世の中はその“技術革新”を享受した市井のコンポーザー&歌い手さん花盛りだ。

 

過去に培った価値を失うのを悲しむのと、技術の進化で参入障壁が下がって音楽(クリエイション)を楽しむ土壌が広がり、それを享受して幾多の才能が花開く世の中を喜ぶのと・・・当然、後者がいいに決まっている!

 

自分としてもYouTubeなどで一般人がアップする演奏や歌唱の動画を楽しましてもらっている。(ニコ生の歌い手さんには詳しくないが)ネットにはプロ以上の実力歌手がいっぱいいて、楽しい。感動する。癒される。

今や米津玄師だったりUruだったり、ネットから見いだされた才能たちがメジャーな場に出てきたようで、(とはいえ、自分はあまり詳しくないので知ったかぶりする気はないが・・・けど、Uruは好き!)、そういう意味でも、世の中はすでにがらっと変わった感がある。変わる、ではない。変わった、だ。

 

思えば、自分が“チャレンジ”を始めようとしていた2006、7年ごろからUGC(User Generated Contents)については期待されていた。とはいえ、世の中がここまで変わったのには、

・音楽を作るためのシーケンサーソフトが、Cakewalkなど高価なものから初音ミク以降安価で高機能なものが出回った

・音楽編集のためのツールが、高価なMTRからPCの性能の向上で安価なソフトDAWにシフトした

・映像機材の性能向上で、デジカメやスマホでクリアな動画が撮れるようになった

・映像編集もAVIDなど専用機材からPC上で動く安価で高性能なソフトが出回った

・SNSで繋がって、作り手たちが“一緒にモノを作る”環境が生まれた

・YouTubeやShowRoomなど一般人が動画を流してPRできる新「メディア」が広まった

・(玉石混交の)一般人パフォーマーの動画を楽しむ視聴者のすそ野が広がった

・その中でマネタイズできる方法が確立されてきた(=広告や、自身を媒体(インフルエンサー)としてのPRなど)

・・・こんな様々な変化がうねりのように起こって、今、世の中ここに至っているわけだ。10数年の間にかぁ、と思うとなかなか感慨深い。

 

今後は、

・国内のパフォーマンスが同時に海外にも波及し、場合によっては海外が主要なマーケット化する

・メジャーに属するパフォーマーとのコラボ的動きや融合したビジネス展開が進む

ような変化はあるのだろうな。

 

個人的には、ギターを再び手にした「青春の夢よ再び!」のオッサン.オバハンたちの中から、次のUruが出てきてほしいな、と切に願う(笑)

遠い昔の月曜日

家の奥を漁っていたら、こんな資料が出てきた。新入社員の頃、毎週月曜日の午前中に作っていたものだ。

偉そうに書いているが、日経新聞や経済研究所の見解をそのまま拝借したものだ。新入社員の証券営業マンに相場観などあるわけがない。当時はコンプライアンスがゆるかったから勝手に作れたが、今だったら無理だろうな。

正直、最後の方は資料を作ることが仕事になって、顧客や見込み顧客に配らないまま大半がゴミ箱に行っていた。今考えるともったいないことで、会社に申し訳ないことをした。まあ、こんな経費がかさんだせいで潰れたわけじゃないから、許してくれるだろうが。

それでも70週以上も続けたのは偉いね、と、一応自画自賛してみる。誰にとっても思い出は常に美しい。

 

この「マンデー櫻井」の第一号は、自分だけではなくて、同期との連名で出していたことが判明(!)した。ここに名前がある石田くんには、今でも仕事でお世話になっている。これも不思議なご縁だな。

NETFLIXに関する特集記事を読んで、雑記。

日経ビジネスオンラインに「ネットフリックス、世界同時配信の裏側」という特集が組まれている。

 

http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/052400220/052400002/

http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/052400220/052400003/?i_cid=nbpnbo_lfct

http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/052400220/052400004/?i_cid=nbpnbo_lfct

 

非常に面白い記事だった。

 

現在、巷では、その旺盛なオリジナル作品製作意欲についてのみよく取り上げられているが、動画配信を支える技術力をベースに、ユーザーフレンドリーなUX/UI、ローカルでのカスタマイズ化と、“総合力”で「グローバル(プレミアム)動画配信プラットフォーム」のデファクトを取りに行こうとしているのがわかる。

 

また、視聴者のネットワーク化機能は他のSNSに任せるなど、無駄に範囲を広げず、大きな“インターネット社会”の中での自分たちの立ち位置を純粋化してみせることで、動画配信プラットフォーマーと言えばNETFLIX、という認知を得ようとしている。

 

記事に「広告モデルではなく会員制モデルなので、顧客属性データなどを外に売ることはないため、現在、問題視されているFacebook等のSNSとは一線を画している」という趣旨の説明が有った。

実際、会員登録の際に男女の属性すら入手していないよ、ということだ。

なるほど。

 

しかし、実際には各種データ(個人情報が特定されるような個別の属性情報ではなく、大きな流れとしての属性ごとの視聴動向のデータなど)は自社内のみならず、外部提供、あるいは外部データとの相互利用によって収益の糧になるのではないか。

 

主にB2C企業では、MAツールやCRMツールなど、既存あるいは見込み顧客の情報を適正管理し、マーケティングに活用するのは当たり前になってきている。

また、会員制ビジネスを営む多くの企業(金融系など)は、そういった企業に、個人情報単体でなく嗜好性や行動を示す大きな履歴データやそれを活用した分析情報を売り(提供し)、企業もそれを活用して商いに繋げる、というWIN-WIN状況がすでに確立されている。

 

自社が「メディア」という特性を持つSNSや検索サイトなどの大手プラットフォーマーは、クライアント企業の自社メディアでの広告に資するため、あるいは“自社以外”でのマーケティングに利用することを含め、クライアント企業の持つデータと各SNSのデータを相関的に利用したサービスを提供していると聞く(第三者のサービサーを介在させるようなケースが多いように思う)。

 

なので、自分は、プラットフォーマーが持つ莫大な属性・行動履歴データは、様々な分野で再利用されることがすでに「常識」であり「前提」条件になっていると思っていた。

こういった前提をNETFLIX経営陣が商売の糧として考えていないということはないと思うのだが・・・。

実際、グローバルな会員一人一人がどういった嗜好性でどういう作品に興味を示したか、という視聴履歴のデータやその偏向性をまとめた分析結果は、個人向け商品を売りたい企業にとっては非常に有用なはずだ。

現在のNETFLIXの会員制モデルは、あくまでも将来の広告モデルやデータを活用した新しい収益化のための布石だと思う。逆に、そうでなければ、株式市場で現在のような評価は得ていないはずだ。

 

もしかすると、NETFLIXが「自分たちはFacebookやGoogleたちとは違う」と言い張ろうとするのは、現時点で投資家からの不興を買わないための建前論なのかもしれない(完全な個人の憶測だが)。

 

Facebookショックに端を発した、今のこういう個人情報の取り扱いへの世界的なハレーションが、IoTを含めたビッグデータの活用全般でそのスピードを滞らせてしまうのかなあ、、、などと思ったりもする。

 

一方で、グローバル企業や国による無軌道なビッグデータの収集は一定の制限を設けるべしという考え方にはうなずける側面も有る。

例えば、中国ではいくら個人が不満を述べようがどうしようが自分たちの生み出す情報が知らぬ間にごそっと企業→国(共産党)に収集される状況になりつつある。

<2018/6/1修正:以下追記>これは、映画『スノーデン』で示された通り、アメリカやほかの国だってよく似たものだと言えるかもしれない。

これによって国が強権的かつ恣意的に個人を虐げるような状況が生じかねないといった懸念が有り、それは大いに心配である。

さりながらAI開発の面では取得されるデータは多ければ多いほどよさそうだし・・・。

 

おっと、NETFLIXの記事紹介という本旨から外れてしまった。

 

前に書いたブログhttp://www.lifeisentertainment.jp/2018/04/16/%E3%80%8C%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%80%8D%E3%81%AF%E5%B9%BB%E3%81%8B%EF%BC%9F%E2%91%A8/

<2018/5/31修正:リンク先の訂正>

の通り、自分はNETFLIXの作品視聴データは作品自体の潜在価値そのものを“見える化”しうるものだと思っているし、その情報の一定条件下での開示・共有化によって、コンテンツファイナンスの土壌を開くことになる、と期待している。

 

これからも、こういった情報には注視していきたいと思う。

「変われない」のか「変わりたくない」のか⑨

結局、今回も長文になってしまった。
反省。

最後に、とはいえ、これまでのチャレンジで自分自身が思い知ったことを書かないとフェアではない気がする。

現時点で、自分はとりあえず、「コンテンツ・ファイナンス」を諦めている。
(自分の長いチャレンジは失敗に終わった、と考えている)

将来的な可能性は大いに感じつつも、今の日本では実現を果たすのは難しいと思う。
それは、ずっと言われている“儲かる案件は儲かるグループ内で独占されている”とか“コンテンツ業界側にコンテンツ・ファイナンスへの無理解が有る”とかだけでなく、そもそも、金融業界側の受け入れ態勢が整っていないからだ。

映画ファンドを作るとか業界外の資金を集めてみるとか、その程度は単発では普通に可能だ。
しかし、それを「産業」にしていこうという金融業界側の意志の力、“うねり”“ムーブメント”のようなものがないと、上手くいかないだろう。
目先の変わったものを追いかけたい“ディール主義”の方々が食い散らかすだけで終わってしまうだろう。
そこには長期視野や“WIN-WIN”の構築といった産業育成の視点が全くない。
今は、みんなそんな感じなのではないだろうか。

「変われない」のか「変わりたくない」のか⑧

リンダ・グラッドンの『LIFE SHIFT』が売れて、みんな、「100歳まで生きるかもしれない」と思い始めている。
日本の平均年齢は46才だ。20代そこそこの東南アジア諸国とは“若さ”の基準が違う。
だとしたら、みんな、年齢なんか“とりあえず横に置いて”前を向いてみてはどうだろう。

『真央ちゃんになりたい』で、主人公の父親・佐々木雅之が旧友の墨田徹からの「新たなチャレンジ」に賭けようと決め、道で分かれるシーン。

****************
微笑んで、再び去っていく墨田。雅之もきびすを返し歩いていく。
墨田「佐々木!」
振り返る雅之。
墨田「俺ら、まだ、若いねんぞ。な!」
雅之「・・・(うなずく)」
再び別方向へ歩き出す二人。
****************

あ、そういえば・・・。

この脚本は、書き上げてすぐ先述の旧友にも送った。
(いつも自分の作品を読んでもらうS君と、飲み会で渡す機会が有ったOさんに続く3人目だったと思う。)
企画書やシノプシスもなく、まったくの脚本だけ、デーン、と渡した。

忌憚ない意見を望んでいたが、何年たっても反応がない。
そういうもんかと思い、諦めていた。

何年も経った後、みんなとの飲み会で、なぜか奴にこういわれた。
「そういえば、お前は子供のころからスカート穿いてるような奴だったもんなぁ」

ん???

飲みの席で突然言われた話で、自分も別の人との会話で盛り上がっていたため、実は奴にきちんと返答できなかったのだが、それってこういうことなのかな、と後になって気づいた。

『真央ちゃんになりたい』の主人公、つまり、「変わろう!」と決意する父親の息子は、“女の子になりたい男の子”の設定だ。
この脚本では構造上、父親の話はあくまでも刺身のつまで、メインはあくまで主人公のサトルくんだ。

・・・あのなあ、●●(名前は伏すけど)。
「俺が一度でもスカート穿いてるとこ、見たことあるか?」

全く・・・。
世の中っていうのは、一から十まできちんと説明しないと、何も伝わらないものなのかねえ。
やれやれ。

「変われない」のか「変わりたくない」のか⑦

話を古い友人に戻そう。

実は、彼を含め幼少期を共に過ごした仲間たちがおり、定期的に会合を持ってきた。
少し前の飲み会で、皆との会話の中で誰からともなくこんな話が出た。

「俺もこの年になると、この組織の中で行く末が見えちゃって」
「本当はこの会社じゃなくて、全く別のジャンルを選んで違う生き方を目指すべきだったかも」
「家族を大切にしているけれど、たとえ配偶者とはいえ、同じ価値観で生きているわけじゃない。この年になると孤独を感じるよね」
「だから、こういう古い友人たちとの邂逅に癒されるんだよ」等々等々・・・。
(こうやって文字にすると仰々しいが、決して悲壮なものではなく、気楽な話ができる仲間たちの酒が入った会話なので、もっと他愛ないニュアンスだったのだが。)

うんうん、だけどさ。

それ、俺は2007年に言ってるからね。
だからチャレンジしてきたんだぜ。全く成果が上がってないけど。
みんなも、そうすりゃいいだけじゃん。
そうはいっても、みんな、大過なく過ごして安定した老後を得るんだよね。
うらやましいなあ。

「世の中も、自分も、これまで通り変わらない。」

そうやって生きてきて、活きていこうとする彼らが、現在のところ「勝者」なのだ。
酒をあおった。“非モテ”が“リア充”を仰ぎ見るような、そんな苦い味がした。

少し前、別の友人から同種の飲み会のお誘いが有った。

「今、少し懐が寂しいし、ただ昔を懐かしむだけなら、今回は行かない」
「もし、(具体的案件を上げて)こういう情報交換ができるなら、ぜひ、参加したいけど」

と返した。
レスがないのが少し、寂しかったりする。

「変われない」のか「変わりたくない」のか⑥

『真央ちゃんになりたい』では、主人公の父親は“エネルギー関連”の仕事に就いている組織に積極的に隷属して生きるちょっと嫌な感じの奴な設定にした。

お上と大手電力会社とのコネクションを軸にビジネスを進める守旧派に属する彼は、新たにスマートグリッドをIoTと絡めて家電などの企業体と一緒に推進しようとする革新派を追い落とす。しかし、社内力学が変わり、彼の会社での居場所がなくなって初めて、「自分には大事な息子がいる。自分自身の人生がある」と思い至り、新たなチャレンジに挑む、そういう話になっている。

思えば、自画自賛だがそんな頃から“エネルギー業界”を対象にしたのは、我ながらいい着眼点だったのではないかと思う。

少し変わった方向からのご提案20180215

ここでも書いているが、エネルギー・電力を取り巻く環境は、今後、大幅に変わっていくように思う。

とはいえ、自分が初稿を書き上げたのは2010年末で、まだまだ自分にはスマートグリッドやエネルギー政策について知識がなかったし、そもそもIoTという言葉などまだバズワードとしてすら聞こえていなかった。
なので、その辺はあくまでも物語の背景として“垣間見せている”程度なのだが。
(あと、今では当たり前の「スマートメーター」という呼称だが、原稿を書いていた2010年夏ごろに参考にした本に基づき、脚本では「グリッドメーター」と書かれていたりする。)

このストーリーを、ソチ五輪をターゲットに実現化させたかった。
せっかくとても優秀な監督さんが「もし、本当に櫻井さんがお金を集められるなら、撮ってもいいですよ」とおっしゃってくれていたのに。

悔しい、本当に。
自分自身の力量の無さが。
(さすがに、もう題材としては古く、実現は難しいかと思ったり。。リノベーションの可能性など、決して諦めるべきではないのかもしれないが。)

「変われない」のか「変わりたくない」のか⑤

でも・・・。
それでも、自分は正直、「もったいないよなあ」と思っていた。

確かにエンタメファイナンスも海外を絡めた映画の国際共同製作などのビジネスも、国内のメジャーなプレイヤーからすると愚にもつかなく映るものだったかもしれない。

でも、そこに落ちている“異界”の「タネ」をとにかく拾ってみて、芽吹けば御の字、芽吹かなければやむなし、くらいの軽い気持ちで、フレキシブルに、機動的に、動いてみたらいいじゃないか。
せっかく、友人・知人がその“異界”から現れたのだから。

「もしかしたら世の中は変わるかもしれない(その可能性が全くないわけではない)」と考え、情報交換のような軽いコンタクトでもあればよかったのに、と思っている。

言っておくが、これはその友人への“個人攻撃”のつもりでは全くない。
むしろ、こういうフレキシビリティーの有る考えの持ち主が、特に日本の大企業には少ないよな、ということが言いたいのだ。
なかんずく、我々の世代に。

正直、山一證券の破たんを経験し、最終的に“組織人生”をスピンアウトした自分から見ると、若干、“異様に”すら映る。
東芝、神戸製鋼、シャープ・・・組織の中で生き抜くことを主眼におき、周りを、そして未来を見ずに生きている人たちのいかに多いことか。

「世の中は変わらない」

そう思い込んでいるようにすら見える。
もちろん、311を経て、あるいは昨今の東アジア情勢の緊迫化などを受け、世の中が大きく動こうとしていることを感じている人は少なくないと思うのだが、こと“自分を取り巻く世界”については、不変であると信じ込んでいるように見える。

「変われない」のか「変わりたくない」のか④

この自己紹介ページにある『真央ちゃんになりたい』という脚本(のショート・シノプシス)。

書いてある通り古い友人との口論が、物語を想起した理由の一つだ。

 

もう少しつまびらかに書いてみる。

 

2007年ごろ。

チャレンジの結果、エンタメ・コンテンツ業界に入ることができたものの、まるっきり初めての世界で周りにほとんど頼れる存在が居なかった。

なので、当時、大企業で広告やPRの分野で映画ビジネスに大きくかかわっていた古い友人に相談に行った。

映画というよりもそれを取り巻くビジネスを担ってきた彼からすると、自分の「これからはコンテンツ・ファイナンスが・・・」などという話は幼稚なたわごとに聞こえたのだろう。興味を示されることはなかった。

 

その2年後、国際映画祭の場で海外の映画等の製作・制作者を呼んできて企画をピッチしてもらい国内外の方々にマッチングさせるイベントの仕事に関わっていた。

 

リベンジのつもりも有り、彼に再びアタックした。

「このイベント会場に来てくれないかな。パーティーも有りそこで色んな国の人々と出会うこともできるし」

 

食い気味に、厳しく(そして諭すように)こう返された。

「いいか、日本の映画ビジネスは製作委員会方式で儲かるメンバーは固定している。映画祭を軸にした映画製作なんて(作品自体の良否ではなく)商業的には儲からない」

「お前がやろうとしている金融を使って投資家層を外に広げようとか、海外市場を新たに狙おうなんてのは、全くの時間の無駄だ」

 

それでも諦めきれず、

「いやだけど、海外の人と会えるってことは、(今ではなく)将来のビジネスに繋がることも有るかもしれないぜ」

と返したら、

 

「そんな名刺交換会なんて、仕事ができない奴が言い訳のために行くようなところだ」

と言い放たれた。

 

頭に血が上るほど悔しかった・・・が。

少し時間が経ち、仕方がないな、とも思っていた。

ビジネスの観点から言えば、彼の指摘は100%正しかった。当時においては、だが。

 

ちなみに彼とはその後、自分が非常に怒ったことを伝える長い手紙を書いて、その手打ちに一緒に飯を食いに行った。それ以降、何のわだかまりもなく付き合っている。

以降は彼の意志も尊重し、こちらからこの種の売り込みをかけることは控えるようにしてきた。

彼も彼なりに気を使ってくれていたらしく、自分が知らないところで社内外でイベントのことを少し話してくれたらしい。

後で聞いたら、彼からの情報がきっかけでイベントの重要な出席者となってくれた方もいたようだ。

そこまできちんとは話していないが、有難いことだ。

感謝。

「変われない」のか「変わりたくない」のか③

だからといって別に、自分の周りの方々(あるいは、大きくくくって「一般的な日本人」)を、「駄目だねぇ」と腐すつもりなんかない。

全くない。

むしろ・・・悔しいのだ、自分自身が。

 

あの当時、浸透期にあったSNSで繋がっていた同世代に友人たちに、「我々の世代は、もし時代が変わらないままだと利益が享受できる最後の世代だが、時代が変わったら最も痛手を喰らう世代なのではないか?」という問いかけをした。

それは、(周りからはある意味、粗忽者と思われるような)自身のチャレンジを理解させたい、あるいは正当化したい、というやや後ろ向き(?)な気持もあってだったと思う。

(実際、その後に設立した会社名のライフ・イズ・エンタテインメントという文字を見て、「エンタテインメント・・・お笑い芸人を目指すんだ?」と大ボケをかましてくれた方もいたような状況だったし。)

 

「世の中は変わると思うんだ。自分に何ができるかまだ分からないけれど、それでも、(年齢だのなんだのと言わず)そこにチャレンジしたいんだ」

「自分は“クリエイション”というのはある種の人間の根源的欲求だと思っている。自分もその欲求に素直でありたいんだ」

 

格好つけるとそういうことを言ってはみるものの、例えばリストラやコンプライアンスのお題目で組織の中で地位を守ることに汲々としていたり子育てに邁進していたりしていた自分の友人・知人たちは、「そう・・・頑張ってね」としか反応を返さなかった。

 

誰がどうこうではなく、自分自身の“人を巻き込む力”の“ひ弱さ”のせいだろう。

そして、結局、長く続けた「コンテンツ・ファイナンス」「クリエイション」のチャレンジは、ほとんど結実しないまま月日だけが過ぎていった。