コロナとデジタル人民元 スラマットは?

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200505-00000036-jij-cn(ヤフー記事「デジタル元、導入大詰め 新型コロナも後押し 中国」 5/5(火) 13:34配信 時事通信)

少し前の記事で、中国で「デジタル元」の実用化が近いという内容。すでに一部都市で実証実験が始まっているらしい。
記事に「紙幣や硬貨を通じた新型コロナウイルス感染に対する警戒感がくすぶる中、『非接触』への流れも導入の機運を後押ししている。」と書いてあるが、中国ではすでにアリペイその他、電子決済手段が多いので、ことさらコロナと関連付けるのは違う気もした。

この記事に対するコメント欄を読むと、
・ドル覇権・既存の金融体制への挑戦
・国家による人民監視の世界拡大
・アフリカやヨーロッパなど一帯一路参加国のさらなる親中国化
・日本の凋落を憂う声
・石油決済通貨になれるかが試金石
・為政者は昔から甘言を弄して人民を縛る鎖を導入する(秀吉「大仏建立」→刀狩。中国「コロナ」→デジタル人民元?)
などなど、示唆に富んだ言葉が並んでいて、なるほど、と思わされた。

デジタル通貨は中国政府に限らず、別の国や共同体でも今後の発行についての検討はされていることだろう。もちろん、フェイスブックのリブラがその代替物になる未来だってあり得なくはない。

デジタル通貨の導入で、決済データや位置情報や属性情報を“大きな誰か”集約して彼らが民衆を監視する鎖にしてしまうのでは、と長年、懸念されている。この点はもしかすると、それが中国政府だろうがフェイスブック(大手IT企業)だろうが、大差はないのかもしれない。

そういう「ディストピア」が本当に訪れるかはわからないが、今回のコロナ禍は、何より個人の権利を重視する「民主主義的」傾向が強かったこれまでの流れを、少し「全体主義的」寄りに変えていく契機になっている気がする。日本だけでなく、全世界的に。

かなり前だが、継続的に参加させていただいている読書会で、何の本だったか忘れたが(確かシンギュラリティとかAI関連の話題だった気がする)、こういった国家などの権力監視の傾向を示唆する話題が出た(と記憶している)。
その時に自分は、「結局、世界の人々は『貴族』か『奴隷』か『芸術家』に集約されていくんでしょうね」と冗談半分で言ったのだが、なんとなく、現実的にそういった将来像が垣間見えており、はなはだ心配だったりもする。

さて、最後に我田引水的な観念論を。

もし世の中が『貴族』『奴隷』『芸術家』に集約されてしまうのなら、なるべく多くの人が(『奴隷』であっても)『芸術家』たりえることが望ましいのではないか。
というのも、持つものはどうしても持たざるものを虐げる傾向があるし、必然的に限られた『貴族』が多くの『奴隷』を統べる形態が歴史的には圧倒的だからだ。

自分が今「スラマットのアド・コマース」で「“徳”の経済」をうたっているのは、ディストピアでなく『芸術家』なら食える、少しはましな将来を期してのことだ。
そのために、
1.芸術家の評価と比較
2.お金を出す人が芸術家そのものを直接的に潤さず、第三者を潤す
3.お金を出す人が長い目で衆人から評価される
というスキームを考えた。
なぜ2が必要かは、もしこうでないと『芸術家』ではなく『奴隷』になりかねないからで、3は『芸術家』を触媒に『奴隷』(?)が逆に存在感を示せるからだ。

なお、とはいえここで目指しているのは階級闘争論やイデオロギー的なものではなく、あくまでもビジネスなので、ぐれぐれも誤解なきよう。
また、アド・コマースが担えるのはあくまで富の再配分機能であって、フェイスブックがリブラで目指すような大それたものではない、と思う。

花をかる

これほど強引なやり方がはたして通用するのか、雲行きを見守りたいという話。
https://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=15875554900943(茨城新聞2020年4月23日(木)「稲敷の公園、チューリップ15万本刈る 新型コロナ感染防止「苦渋の判断」」)
https://www.asahi.com/articles/ASN4L7FCZN4JUDCB00G.html(朝日新聞2020年4月19日「花咲けば人密集…チューリップ80万本、無念の刈り取り」)

なんかこれって、「欲しがりません、勝つまでは!」だよなあ。やっぱり戦争が近づいているのかなあ・・・。

少しネットで見た限りでも、
・茨城県:稲敷公園のチューリップ
・千葉県(佐倉市、柏市ほか)チューリップ園など
・沖縄県:総合運動公園のユリ園
・福岡県:八女市「黒木の大藤」
などなどで、「人が来ないように苦渋の選択で」花が刈り取られたようだ。

実は、自分がこの「花が刈り取られている」ニュースを知ったきっかけは、ホリエモンが「花を刈るって狂ってる。狂ってるって思わないのが狂ってる」と言っているというニュースを見てのこと。
その記事を読んで一瞬、どこかのいち花園のニュースを指しているものと思い、「ホリエモンそのとおり! 人に来てほしくないから花を刈るって、その花園主のヒステリックな対応ってどうなの?」と思ったのだが・・・違った。

これまでも各自治体がこういった対応を重ねており、このタイミング(GW直前)で「花刈り」に注目が集まってきた、ということのようだ。自分も今日初めて知った。
公的な施設がこのような行為に行っているということは、当然、明文化されているにせよされていないにせよ“上から”のお達しがあったわけだ。大げさに言うと公園の花を刈る行為は「政策」として実施されているということだ。

これは・・・「悪手」でしょう、やっぱり。
「密」を避けるためにどれだけの効果があるのか、その具体的データ(根拠)も見えないこの「花刈り政策」。

コロナ対策という公の目的のために個を犠牲にし自重する日本人の美徳や集団意識を喚起することは、自分はある程度は構わないと思っている。
プロパガンダとPRや広告の境など有って無いようなもので、特に今のような非常時には様々な恣意的な情報が“お上から”流されるものだ。それについていちいち文句を言っても仕方がない。

しかし、民主主義国家では「民」が主役。そして民は「踊るアホウ」であり「見るアホウ」なのだ。彼ら(自分たち)は決して強制的に「踊らされる」ことは好まず、むしろそれに反発する。

これまでのマスメディアや芸能人たちが喚起してきた各種の行動の自重を促すようなこと、例えば「マラソンランナーがマスクを着けずに妊婦の横を走ることへの苦言」や「行楽地に県外ナンバーの車が少なくないことへの苦言」などは、それがいかに非科学的な注意喚起であれ、一定の理解は示せるものだった。
「(それって、言いすぎだけど)まあ、注意するに越したことはないよな」
実際、(自分はもともとリモートワーカーで以前と大きな生活変化はないが)ほとんどの人はこういった“空気感”にも後押しもされたうえで「自ら」自宅で過ごす決断をしているはずだ。

今回の恣意的な「花刈り政策」は、自主的な行動を重ねてきた人たちに反発を生みこそすれ、これで「今までの考えが甘かった。さらに行動を自粛しよう」などと思える人は少ないのではないかな。
「いやいや。そこまでされなくても行動自粛してきましたよ!」
「“サンミツ”は窓を開けて換気すると防げる、とか言ってるのに、(いかに密集する可能性があるとはいえ)非論理的じゃないですか!」
「パチンコ屋は“要請”、バラ園は“強制”。これどうなの?」
「この程度の感染可能性を排除するためにここまで行動するのなら、事故発生可能性のある自動車の個人保有はやめるべきではないですか?」
などの“感情的”意見が、これまで自重してきた層で爆発してきそうな気がするが、どうだろうか。

全国的医療崩壊を避けるため国民の行動を制限しこれ以上の感染ペースを鈍化させたい、という行政側の必死な思いはわかるし、携わる方々のご苦労を思うと尊敬するし、いち国民・市民として十分納得もしているつもりだ。
だから今回の強引な「花刈り政策」の背景や思いは理解できる(不遜かもしれないが)。しかし、「民からの反発」を招きかねない今回の政策は、結構ギリギリの行為で、このあと“副作用”が広がらなければいいが、と思う次第。
あるいは、その“副作用”も見越した上での政策なのか? であれば、それはどういう?

いずれにせよ、自分個人にできることはしっかり対策しながら、今回の政策の行方を見守りたい。

リブラ終焉か? そうでもないか? そしてスラマットは?

昨年、このブログで「Facebookの仮想通貨『Libra』」「リブラとアンチ」という記事を書いた。
自分としてはフェイスブックのデジタル通貨「リブラ」には世界のゲームチェンジャーとしていくばくかの期待をしてきた。そしてそれ以降の一連のリブラをめぐるメディアの動きをみて、やはり「世界の基軸通貨:ドル」を脅かす存在は今の秩序においては認められないんだなあ、と実感したりもした。
ちょうど「MMT理論」が流行るなかで国家(陰謀論的にいうと別の主役がいるが)の通貨発行権の強力さをいまさら学び、また通貨(貨幣)の虚構性への関心も個人的に増している(→『天下の秤』という物語を世に出したい!と活動準備中)。
さりながら今のコロナショックを鑑みこれから世界的にMMTにのっとって巨大な財政支出が実践されていくであろう(と期待する)世の流れの中、特に米国追従(心中?)型国家の日本にいる身としては、ドルと円の信用を脅かす存在はタイミング的にも歓迎されないよなあ、と思ったりもしている。
そんなところに「リブラの軌道修正」のニュースが入ってきた。

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO58259110Q0A420C2000000/?n_cid=SPTMG053(2020/4/20日経:「FTデジタル通貨「リブラ」が告げる夢の終わり」)
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO58341320S0A420C2000000/(2020/4/21日経:「FT・Lexフェイスブック、デジタル通貨構想を衣替え」)

リブラ構想が各国金融当局に換骨奪胎され、結局、SNS(フェイスブック)用の小さな決済サービスに落ち着いたようだ。記事曰く「フェイスブックが提供するペイパル」に。

今月16日にリブラ協会が発表した改訂版「リブラ2.0」デジタル通貨計画では、当初計画と以下の3点が大きく変わったという。
① (当初構想)通貨バスケットにリンクする単一のデジタル通貨を発行
→(2.0構想)個別の通貨を裏付け資産とする複数のデジタル通貨と、それらの一部を組み合わせる「デジタル合成」版のリブラコイン(国際取引や自国通貨を裏付けとするデジタル通貨が発行されない国々で使用)を発行
② (当初構想)最終的に誰もがネットワークの運営に参加できる非中央集権方式を目指す
→(2.0構想)規制当局からの許可を必要としない「パーミッションレス」なシステムを断念する(=限られた管理者がいて、それを当局が取り締まる形態になる)
③ (当初構想)?
→(2.0構想)リブラ協会がネットワーク上に開設される全てのウォレット(財布)について顧客確認(KYC)を行い、各国の規制当局に委ねずに独自の監視体制を強化する

ただ、これだけではまだ「フェイスブックの野望は潰えし」とは言えないのかも。
特に、これから世界中で個人データという宝の山をめぐる攻防が繰り広げられる中、③の「各国の規制当局に委ねずに独自の監視体制を強化する」というのは既存体制への反発に見えたり?もする。

フェイスブックに限らず、今、多くのIT企業は広い意味での「金融業者」になろうとしている。
これまでこのブログでは、この「『金融サービス仲介業』のニュース」ほかで折にふれてこれからの金融および決済ビジネスは、コミュニティや特定の経済圏をベースに複数形成されるだろう、と書き綴ってきた。特に有力なe-コマースやコミュニティ(toC)系IT企業はすべて独自の決済機能を持つ「金融関連企業」になる可能性がある。

以前書いた「シンガポールのネット銀行にe-スポーツ企業が参入」のシンガポールに限らず、アメリカでも先日、フィンテック系企業が銀行としてみとめられた。GAFA・BATHはどこも情報と金融サービスを結びつける取り組みを行っているか、これから行おうとしている。
IT企業のすべてが「銀行」になるわけではないだろう。むしろ「個人にまつわる情報の流れ」と「カネの流れ」は同心円部分もあるが別物だ。
カネの流れは厳格に管理され厳重なKYCやチェックが課されるが、それ以外の個人データの方は逆にプライバシー保護に傾くのが建前論のはずだ(中国は例外・・・とはいえ、コロナの長期化で人権重視の国々でも中国的な全体主義的?管理体制に傾いていく懸念はあるが)。
個人データのほうは大きなコミュニティや顧客基盤を持つIT企業が厳重管理の上、顧客同意のもとで一定の商業利用に供し、一部は顧客に対価を支払いつつデータの“囲い込み”を志向するのだろう。

そういう意味で、日経(FT)記事にある「耐検閲性」は現在各種デジタルマネーやポイント制度をもつ世界のすべての企業やサービスに当てはまってくる問題だ。
フェイスブックは、「『マネー』の管理は体制側のルールに従うが、『個人データ』の流通は自分たちのルールで運用するからね」で押し通そうというのだろうか。
とはいっても・・・いかにGAFAでも国家権力が強権的にデータ開示を要求してきたら突っぱねられないと思うが(むしろ日本のIT系はみんなそんな印象)。
このあたりの帰趨について、今後も関心をもってウォッチしていきたい。

さて、話はかわって、今、自分が推進している(そして苦労している)「Selamat!(スラマット)」。
本来、このコロナ下だからこそ必要とされるプラットフォームで、本当は簡易版でもなんでもいいから実体を見せて世の中に出したいのだが、まだその賭場口にいる状況だ。
そして、この構想の先には「SP(スラマット・ポイント)」というコミュニティ内決済を目論んでいる。グローバル・サービスを目指しているので、自分も海外での流通において為替変動リスクを回避するために各通貨のポジション管理などを懸念点として挙げていたり。
なので、リブラの帰趨が長らく関心事だったりしたわけだ。

ちなみにフェイスブックもSelamat!(スラマット)も人と人(あるいは団体)との“つながり”を外に示すビジネスでもある。
フェイスブックでは、本来秘匿すべき個人属性情報が“つながり”情報と一緒に流出したり、“つながり”情報を恣意的な世論誘導に利用されて問題になった。では、Selamat!(スラマット)ではどうだろう?
実はSelamat!(スラマット)は仕組み上、“つながり”情報が最初からしっかり世の中に開示される。もちろん、個人属性情報の流出には十分気を使わないといけないが、フェイスブックほどではないと思う。
恣意的な世論誘導については、すべてのメディアに宿命的に存在するリスクなのだろうと思う。一方でSelamat!(スラマット)は「コンテンツ」「決済※」「つながり」自体がメディアで、メッセージやSNS機能は対象外(連携先、というだけ)なので、これもフェイスブックほどではない気がする。

※正確には決済ではなく「応援」。この記事では“決済”の方がわかりやすいのでこう書いた

まだ簡易版すらできていない現状なので、これらを妄想、と笑うのは勝手だが、新しいことはすべて妄想(いや、空想、ぐらいにしておくか)から始まるのだ。今、ではなく、未来を見るべし、だ。
今のコロナ禍の先に、「アド・コマース(広告付き販売)」による「“徳”の経済圏」が到来する可能性は大いにあると思う。しかも、そのターゲットは世界中に幅広い。
以前、ニューヨーク在住で金融ビジネスに従事する旧友から「しっかり準備してあきらめずに挑めば。Selamat!(スラマット)は必ず成功するはず」という言葉をいただき、それを一つの励みにしている。

いまいま、なにをどう準備すればいいんだろう・・・と悩むところもあるが、あきらめず、挑みたい。

シンガポールのネット銀行にe-スポーツ企業が参入

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO55940010R20C20A2FFN000/(2020/2/21 22:15日経ネット:シンガポールのeスポーツ企業レイザー、ネット銀参入 8000万人のゲーマーに照準)

先日、このブログに『「金融サービス仲介業」のニュース』という文章を投稿して、「これからの金融および決済ビジネスは、コミュニティや特定の経済圏をベースに複数形成されるだろう、という予測を漠然としている」と書いた。
日本ではこの間書いたように、これから資金決済法の改正で決済業者を3段階に色分けすることから始めるようだ。シンガポールの金融通貨庁(MAS)は昨年の夏にネット専業銀行の免許を新規参入企業を募り、その結果がこの記事にあるレイザーあるいはグラブ、TikTokなど、になるわけだ。
シンガポール政府の対応は世の中に先んじていると思う。このレイザーやTikTokのケースでは、「エンタメやE-コマースのような独自サービス→コミュニティ化→電子マネーなど決済→銀行として複合サービス」、という動きになっている。順序がこうであるべきとか、最後に行き着くのが銀行業務だ、などという気はない。むしろ、「コミュニティ」「経済圏」を軸に決済手段(その裏の個人情報)を握って、複合的に“つなげる”ビジネスの動きが、これから一気に、かつグローバルに展開していくであろう、と思う。
保守的な日本という国にいると、今の銀行のような古い形態の企業の側が、新しい企業を吸収して新たに展開していく、という発想が強い気がする。でも、それら古臭い巨大戦艦ではイノベーションは起こせない。日本と比べ平均年齢もぐっと低い東南アジアで展開する活力のあるこういう新サービスに、今後、日本のレガシー企業たちはあっという間に飲み込まれてしまうのかもしれない。そうでないことを祈りたいが。
先日、三菱UFJ銀行がこの記事にも出ているグラブ(東南アジア版Uber。すでにそれを軸に放射状的にサービスを広げている)に出資する、という記事が出ていた。日本はこのような形でしか存在感を示せないのだろうか。
自分がいま進めようとしている「アド・コマース」の取り組みが、正直、まったく期待通りにいかないので、忸怩たる思いだ。笛吹けど踊らず。いや、面前で笛吹けど音色など全く届いかないのだ。異次元空間で叫ぶような虚しさだ。
ソースは忘れたがユーチューブ動画で元NTTドコモ、現ドワンゴの夏野さんが「年功序列に象徴される、古い価値を改められない日本人のマインドセットを転換し、常に変化し成長を求める人物、動きを尊重する社会にするべきだ」「人間が成長を希求するかどうかは年齢ではない。若くても老成する人もいる。逆に、おっさん差別もやめるべき」という趣旨の発言をしていて、大いに同感した。でも、現実といえばどうだろう。
今の世の中は、会社や組織や代表される、「大きなもの・大樹」の中の一人一人の顔もわからないような人々の集合体が、「変わる必要? そんなものないね」「変わるべきなのはわかるが、自分には関係ない」「うちの組織が金にものを言わせればいいだけじゃん」といった漠然としたコンセンサスで“これまでの社会”を継続させようとしてきた。その結果が日本の「失われたウン10年」だ
こんなむなしさを抱えたまま、届かない笛を吹き続けるのに、そろそろ疲れてきたよ。目指す山頂はなお遠く、あくまで行く道は沼地のぬかるみの中にある。自分はこのまま沈んでいってしまうのか。
あまりネガティブな内容で終わるのはよくないので、一方で、身近にあるいい話を。長年の知り合いで、大手金融機関に勤める個人向け資産アドバイザリーのプロの方が、長らく会社を離れた立場で仲間を集めて様々な分野の勉強会をされてきた。彼曰く、今後はもっと外部発信も行い、“個”(あるいは“個”の連携)として新たなビジネスチャンスの機会も探っていきたい、とおっしゃっている。世に出回っているユーチューブ動画なども色々見て、子供にも話を聞いて研究を重ねているそうだ。
前のブログ記事にも書いたが、今後、今の金融の人は、自らがいろいろなビジネス(あるいはビジネスの芽)を顧客につなぐ“ハブ”となるべきだと思っている。その動きと、すぐに来るであろう「ビッグデータを介したAIでのマッチング」との顧客獲得合戦のせめぎあいに、彼らは生き残っていかなければならない。
そういう意味で、この知人の活動はとても素敵な動きだと思う。よく自分も含め「バブル世代」などと「層」で語られるが、その中の「個」「個」が力を発揮しながら、連携もしながら新たな価値創造を継続していくことができれば。若い人からも虚心坦懐に学び、一緒になって新しいムーブメントが起きてくれば・・・いい世の中になると思うのだが。

「金融サービス仲介業」のニュース

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO54882830X20C20A1MM8000/

 

いい、悪い、ではなく、金融ビジネスの進化の過程を感じるニュース。

実は、自分の知人のとある金融ビジネスの経営者は、この記事に書いてあるようなワンストップ型の金融サービスの立ち上げを画策していた。フロントに大きな人員を要さず、ほぼインターネットで完結できるビジネスモデルで、そこには送金サービスも含まれていた。その後どうなったかは知らないが、この記事は彼にとっては朗報なのだろうな。

 

昔からの大きな組織、つまり銀行だの証券会社だの保険会社だの、そういった枠組みが急速に“古く”なりつつあるのを感じる。

一方で、今回の動きは、それまでに蠢いていた「組織」から「個(人間)」へ、という流れも超えて金融サービスにディスラプション((創造的)破壊)を起こすものだ。

例えば、リテール向け証券ビジネスでは、これまで〇〇証券という、多くは総合証券会社に所属する営業マンが顧客と対面して金融商品の説明販売を行っていた。現在、IFAという独立系の(フロント・サイドの)営業マンがそういった大きな組織から離脱し、独立して自らの能力とネットワークで商いする生態系ができつつある。

しかし、今回の流れは、「組織」→「個(人間)」を超えて、「組織」→「システム(AIなど)」の動きを促進していきそうだ。

 

金融商品の販売にフロントで「個(人間)」が絡む場合、金融商品仲介業(IFA)の登録が必要で、IFA事業者などが複数の事業(保険など)を兼業で営もうとする場合は、保険募集人など個々に登録が要求される。要登録事業以外の兼業でもお上への事前申請が前提になるし、投資家保護の観点から金融検査もしっかりされるため、アドミ関連のコストもかかり、せっかく「個(人間)」の力や彼らの緩やかなネットワーク力で稼ぎたい、と思ってもなかなか難しい状況もあった。金融当局が「組織」→「個(人間)」の流れ自体に懐疑的なせいなのかな、と思ったりもしていた。

 

今回の「金融サービス仲介業」という新業種には「個(人間)」を介さない利点が満載だ。「利用者の預金残高などをもとに個人の需要に合った商品を提案することもできるようになる」と書いてあるが、過去の取引データや登録属性データ、あるいは許諾を受けた外部提供データなどと組み合わせたAIによるレコメンド機能などが想像される。

事前に顧客のリスク指向を調査しライフプランを描かせ、資金需要を見込ませ、あくまでも自己判断としての金融商品投資を促す。家計簿ツールなど外部データとの連携などでより顧客に“合った”商品提案を行っていく。血縁関係や親世代の資産状況なども考慮に入れるとより精緻な資金・投資金融商品需要が見込めるのかもしれない。

そうなると、やっぱり、いずれ多くの「個(人間)」は不要になるかな。当然、古い「組織」の機能も一部は「システム(AI)」に代替されるだろう。そんな未来はもう少し先かと思っていたが、来年あたりから加速度的に始まっていくのかもしれない。

 

さて、自分がこの記事で注目した点は、実はそんな感傷的な部分だけではない。

資金決済法の改正で、資金決済にかかわる業者を (1)100万円超の高額送金 (2)現行(※)と同じ (3)数万円までの少額送金――の3つに区分する、という点だ。

※銀行以外でも資金移動業の登録をとれば100万円まで送金事業を手掛けることができる

 

自分はここにも書いた通り、これからの金融および決済ビジネスは、コミュニティや特定の経済圏をベースに複数形成されるだろう、という予測を漠然としている(それに基づき、自分が動いているプランもある)。

デジタル通貨(決済手段)が乱立し吸収合併を繰り返しながら、決済データの収集を中心に個人データを集めて提供サービスを競うことで、金融ビジネスはe-コマースの一環に位置付けられることになるかもしれない、と思ったりする。

そういった決済ビジネスの道順が示された、ということなのだろう。

 

今回の記事は、自分を含めた金融をバックボーンにする多くの者(特にロートル)にとってはピンチな内容かもしれない。しかし、ピンチをチャンスにする気概を持って、新しい世の中を想定し、自らビジネスをクリエイトしたいし、願わくば自分のような考えに賛同してくれる人が増えてくれれば、と思う。

Googleのクッキー提供廃止

●米グーグル、ネット利用者の閲覧データ提供取りやめ(日経 2020/1/16)https://www.nikkei.com/article/DGXMZO54437490V10C20A1MM8000/

ついに、というビッグニュース。GoogleがついにブラウザーChromeの(サードパーティ)クッキーを外部提供しないことを発表した。GDPRなど個人情報保護の機運が急速に進み、結果、現在のアドテクが根幹から変わることになる。もうリターゲティング広告は廃れることになるのだろうな。

そんなアドテクのエコシステムの参加者は死活問題になるところもあるだろう。アドテクの領域には、クッキーを集めオーディエンスデータをセグメント化して販売するデータエクスチェンジャーや、複数の広告枠をつなげて取引するアドネットワークやアドエクスチェンジ、DSPやSSPというRTB(リアルタイム・ビッティング)の取引システム提供者、あるいは企業のマーケティングデータと連携させるDMPといった広大な領域が広がっている。こういった様々な領域のどの分野、どの企業が生き残れて、どの分野が廃れるのかな。すでに、GDPRの施行や個人データ保護法(クッキー法)の観点でデータエクスチェンジャーやDMPの立ち位置が問われていたのだと思うが、正直、この業界の現状はほとんど把握できていなかった(もともとこの分野への知見が浅いのでね)。

少しネットでこの記事への意見などの情報をさらったが、もともとサードパーティ・クッキー由来のデータは信頼性が低いので、今回のグーグルの措置の影響は薄いのでは、という声もあった。むしろ、人知れず莫大な個人データを集め続けるグーグルへの「悪の帝国化(?)」懸念の声のほうが多いかもしれない。

上記記事には「クッキーを利用した顧客分析を導入している企業も多いが、今後は難しくなる。外部からのクッキー収集に頼らず、自社で直接、消費者のニーズを探る取り組みも必要になる。グーグルは、企業向けにクッキー利用に代わる個人分析の新技術の開発を進める方針も明らかにした。各企業は、新技術への対応も求められる。」とある。

いずれにせよ、時代は“次”に移っているわけだ。

さて、話は変わるが、これまで何度かいろいろな人に語ってきたのだが、自分は個人の関心(≒情報)と企業などのニーズと資金を“つなげる”ビジネスは今後、様々な形で広がっていく気がしている。そして、「金融」(特にリテール)と呼ばれていた領域はそういった方向性に一部シフトしていくとも思っていて、現在、自分が推進しているものも新しい「金融」ビジネスに発展するかもしれない、と漠然と思っているHPにあるとおり、「アド・コマース(広告付き販売)」という言い方で説明しているが、「広告」というと誤解を招くかもしれない(これは企業も個人も参加できるので)。

ウェブ広告の世界が“次”のフェーズに向かう中、この新たな概念が存在感を示すことができれば・・・できるだろうか。。。できますとも!(たぶん)

みずほとソフトバンクの情報銀行に思う(乱文)

少し前のニュースだが、みずほ銀行とソフトバンクが共同出資するJスコアが情報銀行の事業者認定を受ける、という話が出ていた。
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO53746110U9A221C1EE9000/(日経 2019/12/25「みずほ、情報銀行に参入。ソフトバンクと共同で」)

記事にもあったが、これまで認可された、あるいは申請を行っている情報銀行(三菱UFJ信託、三井住友信託、フェリカポケットマーケティング、電通(系)など)は、どちらかというとまだ“試運転”の様子だが、Jスコアはすでに100万人の会員を持っている。

今回の記事では、現在のJスコア社の100万人の会員のみならず、将来的にはみずほ銀行やソフトバンクの顧客基盤を連携させる方向を示唆している。これについては先行していた三菱UFJ信託なども同じ考えだったと思うが、個人的にはソフトバンクと組んだみずほの優位性を感じる。

このブログでも時々注目してきた(ここここここ)が、情報銀行というのは、個人データ、つまりいわば個々人の行動や考えを反映した多くの情報を企業マーケティングに活用させる接着点のサービスで、その対価がデータ提供した個人に還元されるビジネスモデルだ。その運営のためには適正な個人データの管理力と、データ提供先の企業の精査力が要求される。

Jスコアの場合、AIで信用スコアを算出し、そのスコアに応じた特典やサービスが享受できるというもので、将来はみずほ銀行の決済データなどを適正管理の上、提携先企業のマーケティング等にも提供し、顧客はその対価をもらうことになるのだろう。
まさに中国が先行し普及しているアリババの「芝麻(ジーマ」信用」テンセントの「テンセントクレジット」を倣ったものといえるだろう。

中国は今や金融関連ビジネスのIT化が最も進んでいて、日本の金融業界は取り残されている感がある。同様に中国はQRコード決済がいきわたり、日本や欧米では銀行や金融機関が担っていた業務が多くIT系企業が運営する形になっている。
日本でも各銀行はQR決済サービスを行う企業と業務提携を行いだしているが、銀行の“中の人”は「あくまでも一つの勉強として」というやや消極的なスタンスのようにも見受けられる。
実際、先日立ち話したとある地銀の人は、「日本は高齢者が多いので、電子決済が主流になるにはまだ10年かかると思いますよ」と言っていた。

日本では現金至上主義の人がまだ多いが、世界を見るとむしろ少数派で、電子決済の比率が非常に高くなっている。例えば、現金流通が多い日本はATMや両替機のニーズがあるが、電子決済が主流になればそういった機械は不要になるし、銀行内の資金決済周りで働く人々は不要になっていく。企業としての銀行にはいい話だが、従業員は職を失うことになる(とはいえ、今でも銀行の店頭はほぼ皆が派遣社員で、コストカットは進んでいるのだが)。
中国でもまだATMのニーズはある、という声もあるが(参考:昨年の富士通子会社による記事 https://www.fujitsu.com/jp/group/fri/knowledge/ideatank/2018/2018-12-3.html)、そんなに安穏と構えていて大丈夫なのだろうか。あちらとこちらでは時間の進み方がまるで違う。
もちろん、日本の銀行や金融業務従事者の中にも危機感を持っている人は多いと思うが、時代の変化は我々が思うよりはるかに速く、日本は取り残されるリスクがある。
よく言われるが、中国は個人情報保護の概念が薄くその情報は最終的には国家、つまりは共産党に集約されるともいわれる(一方、その他へのデータ移転についてはしっかりガードしている)。AIの進化のカギは大量のビッグデータと言われ、その面では日本や欧米はじめ先進国に比べ格段に優位な位置にあるともいえる。

一方、欧州ではGDPRを施行し個人データを個人固有の権利としてその流通に制限をかける方向でシフトしている。アメリカでもGAFAはじめ巨大IT企業は、これまでのデータ独占から個人データをしっかり管理し、使用用途をしっかり開示し個人から許諾を受ける方向に流れが変わり始めている。
今年のG20でも個人データ流通の国際的なルール整備が議題に上がっており、議長国だった日本が推進を始めた情報銀行(情報信託機能)の行方がどうなるかは様々なところで興味を持たれているだろう。

「情報銀行」(あるいは「情報信託機能」)という名前からか銀行からのサービス参入が多いが、個人的には、その動きには疑問を持ってきた(参照、昨年のブログ)。むしろ、データベース管理のシステムを提供するIT企業や(―①)、様々な企業とのマッチングを生業とする企業(―②)がそこを担うべきであるようにも思う。
ブログで以前書いたが、(世界的に悪名高い?)金融当局による検査監査で縛りを入れられるように、信託という形態をとりたかったのではないか、といううがった見方もしている。
実際、情報銀行では個人情報提供の対価としてサービスなりポイントなりを提供し、そのポイントは現金化できる場合もある(実際、電通系のマイ・データ・インテリジェンス(MDI)は複数のキャッシュ交換可能な決済手段との互換性をうたっている)。大きなくくりで「金融」のルールで縛ろうと思えば強引にできなくもない、と思っ(危惧し?)たりもする。

よくわかっていないままで僭越だが、個人的には①と②の機能を分け、②のマッチング企業にシステム提供するIT企業を個人情報を管理するカストディーとして①とし、②には銀行だけでなく、e-コマース含む様々な事業者が名乗りを上げるような形態がわかりやすいと思う。
つまり、データ管理はシステム管理能力の高いIT系のみとし、マッチング・ビジネスは銀行はじめ流通系でtoCを行うすべての顧客関連ビジネスが対象で、SNSなどのビジネス形態もそこには含まれるかもしれない。
この場合、①とつながるすべての②のマッチング・ビジネスの主体は、KYC(顧客の本人確認)など一定のルール化の下に置かれなければならなくなる。銀行もQR決済手段やポイント提供するSNSなども、統一されたルールに縛られることになるのかもしれない。
電子マネー・少額なら現金と交換が可能な各種ポイントは、(すでに資金移動業や電子決済等代行業などの縛りはあるが)主に銀行が縛られている法定通貨の決済にかかるルール側に縛られていくことになるのかもしれない。その場合は仮想通貨(暗号資産)についても同じ方向性になっていくことが考えられる。
現在、手を挙げているすべての情報銀行が電子マネー的なものとの交換を考えていないかもしれないので、すべてが金融側のルールに縛られる、というわけではないかもしれないし、「決済手段」と「個人情報」はあくまでも別のテーマなので、それらを混同してはいけないけれど。
なお、こういった考えは、マネロン対策を考えると妥当にも思えるし、逆にすべての決済サービスに公的機関のチェックが入る状態というのは、健全ではないという気もする。

さて、このところ銀行や証券会社などの既存金融機関で働く従業員の閉そく感が語られて久しい。与信行為や金融商品ないし保険商品の販売といった現行のビジネスは、今後どんどん人間の手を離れ、AIの発達に伴い、上記の情報銀行などをベースに収集された個人のビッグデータを解析したうえで個々人に適正と思われる提案を自動的に行うようになってくるだろう。
つまり、これまで顧客回りの仕事や与信や販売の管理などにかかわってきた多くの金融事者は実質的に職を失うであろうことが見込まれる。必然的に金融機関自体がこれまでとは形を大きく変えて、e-コマース全般の中に集約されてしまうのかもしれない。
取り扱う商品やサービスが何かにかかわらず、データ管理ビジネスが中軸にあり、e-コマースそれに連なる形で複数存在する一方で、横ぐしをさすようにSNSのような横断的なコミュニティーサービスがますます存在感を増していくように思う。
そして、それぞれの新しい形の“共同体”や“経済圏”に関与する人たちの決済行為を共通化させる方向に行くようにも思う。
例えば現在、メルカリは「中古品CtoCマーケット(コミュニティ)」を作り、その基軸通貨たるメルペイを擁し世界市場を開拓しようとしている。そういった様々な“共同体”や“経済圏”が、国内のみならず世界をまたにかけた形で、これから様々にできていくのだろう。

さて、では今後、職にあぶれるであろう金融ビジネス従事者はどうすればいいのだろうか。当然、置かれた立場や能力は人それぞれに違うので一概には言えないが、一言でいえば、様々な経済圏が形成される過程で、「ハブ&スポーク」でいう「ハブ」になるよう努力して動かなければならないのではないか。
まだ人と人とのコミュニケーションには“ハイタッチ”(face to faceでのつながり)が求められる要素が大きい。
例えば今、証券会社では野村證券やSBI証券などが地銀と組むなどして、顧客紹介ビジネスのウエイトを上げようと模索している様子だ。だが、そうやって「組織」が顧客を囲い込むようなやり方でうまくいくだろうか?
自分は、結局「組織」ではなく「個」あるいは「個」の連携がそれをできるか否かが重要なのではないかと思う。
例えばプライベートバンカーなどがそうであるように、金融商品販売に限定されない様々な“魅力”を携え、ハブとして人と人をつなげて(engagement)、人にできない付加価値を提供することで厳しい生き残り競争を戦っていく必要があるのではなかろうか・・・とはいえ、それだってAIによるone to oneマッチングが当たり前になった時代には無用の長物となり果てるかもしれないのだが。

「情報銀行」のニュースを入り口に、いささか脱線した感のある、まとまりのない文章になってしまった。情報銀行については、まだ自分も十分把握できていないところもあるし、考えがまとまらないままで書き出し、その結果、よくわからない内容になってしまったかもしれない・・・反省。

最後に。
自分がいま進めている新ビジネスの目的は「“徳”の経済圏」という新しいマーケットとコミュニティを作ることで、それはある種の「未来の金融ビジネス」の一つの姿かもしれない、と思ったりもしている。
自分が金融機関出身者だから我田引水したいだけなのかもしれないが。

ロケーション・インセンティブと企画開発費への私見

さて、前回の記事に続き、矢継ぎ早に。
参加した映画の国際共同製作のシンポジウムで、今年度、日本政府が海外映画のロケ誘致でインセンティブを出す“試行”を行おうとしており、その作品選定にかかっている、という話を聞いた。自分は初耳だったが、すでに公表、報道されているようだ。

ロケーション・インセンティブは、実際にロケで使用されたスタッフの人件費など、多分に経済効果を鑑みて映画製作者に金銭が支払われるという政策的支援で、今、全世界で様々な非常に大きな金額のインセンティブが助成金や基金等の方式で供出されている。
前の記事で、自分は助成金には反対の立場だ、と書いたが、それはそれ。これまで金額の少なかった映画関連の日本における政策的支援が世界から注目され、新たな経済効果、あるいは文化的にも波及効果を生むのは、単純にいいことだと思う。ロケインセ(そんな略称はないが)の場合、選定の物差しは芸術性など恣意的なものでなく、あくまで経済的なものだと思われるし。

このインセンティブ支出の“試行”は、内閣府を中心とした動きだそうだ。そう聞いてインターネットを検索したら、内閣府のHPで今年3月の「我が国のロケ撮影の改善に向けた取組の現状について」という資料が見当たった。
なかなか面白い内容で、平成29年度からずっと議論されてきたものが具現化されているらしい。実は、30年度の海外作品誘致・支援の中間とりまとめ資料には、「仮に我が国に諸外国類似のインセンティブを導入する際には、国内映像産業の現状を踏まえつつ、我が国として期待する効果を明確にし、その効果を担保するための支援基準の設定を行う必要がある」とまとめられている。

手前みそだが、これは前述記事で書いた『コンテンツファンド革命』の中で自分が提案した政策的支援への考え方そのままであり、自身の考察力の確かさを強く再認識できた。ある意味、自信になる。
もちろん、自分はこの検討会のメンバーではないし、メンバーのお偉方には直接的な知り合いは(ほぼ)いないので、こういった“見解の一致”は全くの偶然だろう。
(彼らのうち、どなたかが『コンテンツファンド革命』や政策的支援研究会の資料をお読みいただいた可能性はゼロではないが)
この偶然の一致は、自信になる一方で、そこはかとない寂しさも感じてしまう・・・結局、自分は全くかかわれてないんだよな~。残念。

昔、以前いた組織で、国際映画祭に絡め、まだ製作資金が集まっていない映画企画を集め、プロデューサーや配給会社など協業者候補とマッチングさせる国も絡んだ事業の担当者をさせていただいていたことがある。
昨年、ここでも書いたが、このマッチング事業の将来への提言として、「国際共同製作のハブ」「ロケ支援やプリセールへの金融資金供給を金融機関と行うプラットフォーム」なども盛り込んだ資料を上司に提出したりもした。
結局、この会社自体がなくなったし、その跡を継いだ公益財団からも自分は離れたので、こういった動きには全く影響を果たしていないが、一方で、自分が書いたようなビジネスが、他で着々と実現に向けて動いているようだ。これも寂しいっちゃ寂しいが、仕方がないと思うし、昨年の記事でも書いたように、実現すればいいことだと思う。
(ただし、前の記事にて紹介した「フランズ・アフマン・プロジェクト」のように、ただ資料を作っただけでなく、自分が主体となっていろんな人を巻き込んで動き回ったことが、全く外で事業化されたとすれば、それは多少ならず“へこむ”し、感情的にはどうも、、、という気がするが)

数か月前だったと思うが、とある学校の先生から、「とある省の若手が、各国の政策的支援について勉強し、今後の政策に生かしたいと思っている。サクライさんが昔まとめた資料って残ってる?」と聞かれたので、自分が公益財団の時分にまとめたものや、その後の政策的支援研究会で作成したもの、あるいはフランズ・アフマン・プロジェクトで作った一部資料も、その先生を通じて、「このままでは宝の持ち腐れなので、ぜひ、活用してほしい」とお願いしてお送りした。政策的支援については、どっちにしても役所の人しか実現させることができないので、自分が資料を持ち続けていたところで何の意味もない、と思ったからだ。
なので、この件については、自分が全く携われなくても、書いたことがなにがしかの政策に寄与していくことを期待している。送った先の役人の方が資料をご覧いただいたかもわからないので、これはあくまでも自分個人の思いとして書いた次第。

さて、話を上記内閣府資料に戻す。
29年の資料で、「官民ファンドの活用などにより、特に資金需要の高い企画開発や製作段階においてリスクマネーを供給する方策を検討」という一文が見受けられる。これはどういう話だろう。気になる。

“商品”としての映画を考えた場合、上映など流通市場での商業展開が見えない段階では、その映画(企画)は無価値に等しい。残念ながら。特に企画開発段階は「海のものとも、山のものともわからない」状況で、映画を作ろうとするプロデューサーたちは、みな、四苦八苦している。
自分も“なんちゃって映画プロデューサー”の立場であり、これまで自身の映画企画を売り込んできた立場から、企画開発段階に資金が集められないのは(数々の立派な映画プロデューサー同様)非常に大きな課題として実感している。
これは、独創的ではあるがアイディアと事業プラン以外に主たるリソースを持たないシード期のベンチャー企業にお金が集まらないのと似ている(現在の自分がまさにそれに近い立場だが)。
一方で、追加出資(調達)時にバリュエーションが変わってその分、最初にリスクをとったシード期の投資家が利得を得る可能性があるベンチャー企業に比べ、映画の場合はリスクテイクした企画段階の投資家がその後の投資家と比べて得をすることがない。

フランズ・アフマン・プロジェクトでは、企画開発期の投資家は映画への投資リスク構造を十分に理解している投資家に限定すべき、と提言していたし、一定時期にそれまでのコスト“とんとん”で新しい投資家にテイクオーバーするオプションを付けた(それ以降、継続保有も可)映画企画ファンドを提言していた。

現在、世界の映画祭などで開催される各種の映画企画マーケットには企画開発費を出すアワードが提供されているケースがある。そんなアワードなら別だが、基本的には「企画開発段階は、プロデューサーが頑張ってお金を集める」のが王道で、投資家層から集めるのは容易ではない。残念ながら。
だから上記の“官民ファンド活用”も、アワード提供ぐらいなら(人材育成などの名目で)全く問題ないが、官の資金を企画開発段階につぎ込むのは、なかなかハードルが高い、と個人的には想像する。

・・・角川のエンジェル大賞という「アワード」をいただいて自身の映画の企画開発をし、自身も人様の映画企画に協業者候補をマッチングさせる事業を担当し、金融業界を巻き込んだ映画製作の資金集めスキーム構築の努力を続けながら、方や自身の映画企画を実現させようと動いてきた自分がこういう”至極まっとうな意見”を書くと、「アンタにはどうしても映画を作りたい、っていうパッションがないよね。だから、いつまでたっても映画がが作れないんだよ」などと評されてしまうかもしれない。
そうかもしれないが、本当にパッションがない人間なら、これまでのようなチャレンジはずっと続けてないぜ、と言いたくもなる。
自分は、映画は作品であり商品だとずっと思っているので。例えば、インベスターに不義理になる資金集めなどはすべきでないと考えている。とにかく、ずっと一番欲しかったのは「企画開発費」なんですけどね。

国際共同製作とファイナンスの思い、そして新ビジネス

1か月以上ぶりの投稿になる。
さて、先日、仕事の関係で、東京国際映画祭の一環で文化庁が主催し自分が昔所属していた公益財団が共催するシンポジウムに参加した。仕事、といっても長らくチャレンジしてきた映画やコンテンツファイナンスのビジネスではなく、仕事仲間から回してもらったライター的な仕事だ。
おかげさまで、会場では(もちろん、自身の仕事を終えた後に)数名の古い知人に会い、近況報告等々をさせていただき、ありがたかった。

このシンポジウムのテーマが「国際共同製作」。つまり、日本の映画を海外の国と一緒に製作(合作)することと、それに伴う資金集めについての話だった。
実は、くだんの公益財団法人で働いていたころ担当していた仕事の一つがまさに「国際共同製作に伴う各国の政策的支援の仕組みの研究」で、自分が英文図書やインターネット情報などをもとに各国の事例を調査し、それを上司やオブザーバー参加の弁護士の先生方、有志でご参加いただいた業界の映画プロデューサーの方々にお伝えし、情報を共有し、そのメンバー内で様々な議論を交わした。

今回のシンポジウムは、その公益財団のトップが語る「国際共同製作に対する現在の国の取り組み」だったり、長年、中国で国際共同製作の窓口をしてきた方の「日中での国際共同製作」、フランスとの国際共同製作の指南者による助成金などを活用した「日仏共同製作」などが講演された。また、ご自身の国際共同製作作品ほかで世界的注目を集める映画監督で、インディペンデント映画人が集うNPO法人の中心的存在でもあり、積極的に映画の政策提言をしてこられた方や、これまで数多くの国際共同製作作品のプロデュースをしてこられた映画プロデューサーを交えたパネルディスカッションが開かれた。

今、自分はコンテンツファイナンスや国際共同製作といった領域からは離れてしまい(機会があれば携わりたいが、残念ながらそんな話が舞い込まない)、一方で新たなビジネスの立ち上げを志しているのだが、シンポジウム登壇者の話を聞きながら、ムネアツというか、熱く感じるものがあった。
(盛んに語られるフランスの国際共同製作の助成金制度の説明を聞いて「そうそう、そんなシステムですよね。いや、懐かしいなあ」などと思ったり)

さて、登壇監督はじめ国際共同製作に関する日本インディペンデント製作陣の論調はおおむね以下にまとめられる。
【現状】日本の映画産業は大手が独占し、映画の多様性を阻害している
【問題】そのため制作現場は疲弊しているが、中堅、小規模映画製作陣の灯を消すべきではない
【解決策】これを解決するために、海外に倣って政策的支援が必要だ。特に、文化助成に立脚した「助成金」を充実させるべきだ

これは長年訴えられていることで、現状分析、問題意識について、自分もその内容や思いにシンパシーを大いに感じている。しかし、解決策である「助成金」については、常に「気持ちはわかるけど、それってどうなんだろう?」と常に感じてきた。

自分が電子書籍で2013年に出版した『コンテンツファンド革命』でも、自分なりにあるべき政策的支援について考えを述べている(第4章「政策面での課題」)。この本の内容自体、【現状】と【問題】については同じ主張を書いているので、監督と自分の考えの違いは【解決策】についてだけだと思う。
自分の考えはこうだ。

【解決策】これを解決するために、日本独自の政策的支援が必要だ。経済・文化的相乗効果を狙う「税制優遇映画ファンド」とインディー支援のための「寄付税制」(認定NPOなど有効活用)の重層活用が考えられるが、そのためには映画投資家層を広く育てる必要がある(そのためには金融ビジネスの活用が重要)。

自分は金融の出身で、映画の世界に携わってからもビジネス志向を堅持してきた。様々な文化的取り組みに「金儲け」が絡むことをポジティブにとらえている。ただし、それが限定した人たちの「金儲け」になるべきではない、と思っている。

本文の中に、以下のような文章を書いた。
 この章を読まれた方の中には、読んでいて違和感を持たれた方も多いかもしれません。この本では「文化多様性を保持するためにも、良質な商業映画を作れる市場環境を整えるべきだ」と説いてきましたし、そのためにコンテンツファンドを通じて外部からの資金を映画界に還流できる仕組みが必要だ、と主張してきました。これを裏返すと、現状は、文化多様性が脅かされるほどの危機的状況なわけであって、「政策的支援を語るなら、まずは“文化支援”の観点からスタートすべきではないか」とお感じになられる方も多いのではないかと思うのです。これまで書いてきた税制優遇映画ファンドやその認定監査プロセスの説明が、余りにも“ビジネス寄り”に過ぎる、とお感じの方もいらっしゃることでしょう。
 もし、そういうご指摘が有れば、そのお言葉は甘んじて受け入れたいと思います。ですが、敢えてへそ曲がりな意見を言わせていただければ、“文化支援”のためには“産業支援”が必要ではないか、と思うのです。
 もし、「大規模商業映画に駆逐されそうな小規模映画を“文化支援”のために助成しよう」ということになると、助成金にしても、仮に“映画税”のように固定のお客様から財源を徴収するような方法にしても、国民の負担が生じることは間違いありません。また、芸術性や文化的価値といった、評点の付けがたいものが審査対象ですから、この審査は審査員側の主観に依ることになります。特に“反商業性”といった変に歪んだバイアスがかかり恣意的な選別がなされた場合、そこで選ばれた映画は・・・言葉は悪いですが、“特権的保護映画”になってしまうのではないでしょうか?

“特権的保護映画”などと聞くと、「ふざけるな! 映画芸術を解せないサルめ」「銭の亡者のサクライ、許すまじ!」など各所からアレルギー反応が来そうで怖いが、それでも“銭の亡者”の姿勢を堅持するのは、自分なりに大局的に考えてのことだ。
国庫からお役人や限られたメンバーにいいように(?)使われるよりは、民間資金を流入させ、お上がサポートする形のほうが健全だし多額の資金獲得が期待でき、多様な先に回る“可能性”がある。

さりながら“可能性”はあくまで可能性であって、これを実現するためには「映画投資愛好者」の輪を広げ、映画等へのパトロネージュ文化を国民的に醸成する必要がある。これは、さりながら大変な難題だ。
「偉そうなことを言うけど、サクライは映画に金を集められるのか?」「本でいろいろ提言しているけど、彼は評論家や解説者のつもりなんでしょうね」などと言われてしまうかもしれない。
これまで実績を出せなかったことに、誠に深く恥じ入るばかりだ。でもね・・・「俺も、見えないところでずっと頑張ってきたんっすよ~!」(涙目)

この『コンテンツファンド革命』という本は、映画・コンテンツ投資専門の第二種金融商品取引業者の設立を目指した際に書いたもので、もともとはその会社を土台に広く各所を巻き込んでいければ、と思っていた。そこで「政策的支援研究会」という会を催し、弁護士先生など様々な先にアプローチもした。しかし、同社は二種金をとったものの自分はそこから離れる結果になったし、同社の取り組みも大きなものにはならなかった。
その後、地方の映画祭の仕事を経て、「フランズ・アフマン・プロジェクト(※1)(※2)」と称した、自分の周りにいる富裕層をターゲットにする金融ビジネス従事者を巻き込んで、映画投融資の事業を興して投資家コミュニティーを形成する、というビジネスプランを各所に持ち込み、巻き込みを図った。けれど、これもうまく結実できなかった。
その後、中国資本の会社で国際的な映画製作ビジネスを! というプロジェクトにかかわった際も、グローバルな総合コンテンツファイナス事業をめざして、やはり人を巻き込んでは見るものの、期待した方向には進まず、とん挫した。

※1 フランズ・アフマンは1970年代以降にプリセールスを活用した融資でスタジオ制作以外の欧米のインディペンデント映画の資金調達に貢献した銀行家(インディペンデント映画といっても、日本とは桁違いの金額で作られている)
※2 この「フランズ・アフマン・プロジェクト」では、ファンドや純投資だけでなく、海外助成金等々を根拠にした融資や、投資型(11/22修正→融資型)クラウドファンディングの活用、目の肥えた映画投資家に限定した企画段階でのリスクマネー供給のためのファンド、日本独自の完成保証制度案などのスキームを提案していた。また、政策的支援としての税務的な案(馬主制度などを参考に)も考察した

今でも、「サクライさんは映画とファイナンスを結び付けようとしてるの? ありがたい!映画の企画があるんだけど、投資家を紹介して」などとお声掛けいただく。
申し訳ないが、自分には今、確固たる資金調達能力はない。もちろん、企業PRやM&Aふくめ“よろず営業マン”として生きているので、営業活動はできるし、全く期待できないわけではないのだけれど。
「映画という“投資案件”はほとんど儲からないし、儲かる映画には投資できない」「社会的意義だけで投資する投資家はまずいない」という、昔からある大きな壁は、いまだに大きな壁なのだ。

さて、このままだと、昔語りをして、かつ、その取り組みをあきらめた、という悲しいだけの話になってしまう。

当社について

このホームページのトップページにあるように、現在、自分は「Selamat!(スラマット)」というプラットフォームを開設し、「アド・コマース(広告付き販売)」というマーケットを生み出し、拡大していきたいと考え、各所の巻き込みを続けている(そして、これまでの取り組み同様、なかなか前途多難な状態でもある)。
映画への投融資へのチャレンジから、いきなりネットビジネスやアドテクの話になり、「“銭の亡者”サクライは趣旨転向してベンチャービジネスに取り組もうとしてるんやなぁ」と思われるかもしれない。

しかし、実はこれは、これまでの取り組みと地続きでつながっている、と自分は思っている。
アド・コマース(広告付き販売)には、クリエイターやアーティストが提供する商品を介して、お金を出す人(企業・個人)は純粋に”応援”することで高質な認知効果を得、クリエイターやアーティストのファンに自分たちのファンになってもらい、ロイヤルカスタマー化する狙いがある。
ここで必要なのは、こういった“応援者の輪”を広げることだ。自分が『コンテンツファンド革命』で主張した「映画投資愛好者コミュニティー」よろしく、「応援者コミュニティー」を形成することだ。ただし、この応援者コミュニティーは金銭的な参加ハードルはぐんと低いし、応援対象は映画に限定されない幅広いものとなる。自分がアーティストなどを応援することで第三者のファンに喜んでもらう、という「”徳”の経済」に賛同し参加する企業と個人たちのすべてが、応援者コミュニティーの構成員となるのだ。そんな輪を広げていきたい。
こと映画に関して言えば、応援者の輪の一部がクリエイターたるインディペンデントの映画監督などへの支援に発展し、その映画への投資家に発展するようなことが期待される、かもしれない。

心ある、映画を映画として保ちたい方々からは、「サクライの考えは、あまりにビジネス志向的すぎないか」と言われてしまうかもしれない。でも、今、映画やテレビという“土台”そのものが大きく変わりつつある。
NETFLIXやYOUTUBEなどが映像ビジネスを根底から揺るがせつつあり、GAFAら大手IT企業が個人データの活用を軸に巨大化し進化しづけており、例えばGoogle陣営のアドテクを駆使した広告モデルが世の中に蔓延している現在、「映画」や「テレビ」といった産業は、まったく時代遅れになってしまった蒸気機関車みたいに映ったりもする。
だが、その“純粋な中身”の力(つまり物語や表現など。これを「コンテンツ」というと曲解されかねないので、あえてこう書く)は媒体がどう移り変わろうと、もちろん、何ら変わらないはずだ。
結局は、アーティストやクリエイターといった「個」が力を発揮し、人々に影響を与えることで、世界に新たな価値が生まれ、それが新たな社会を構築していくのだ。自分はそう信じたい。
(そうでなければ、結局はプラットフォーマーや国が世の中を恣意的に操作、構築していく、という観念から逃れられない)

だから、アド・コマース(広告付き販売)の力で、個の創造性と影響力が評価でき、それを応援する人たちも「“徳”があるなぁ」と尊敬される世の中をもたらすことができれば・・・。
書いていることが壮大すぎて失笑されるかもしれないが、その実現のごくいったんでも担えれば、と、僭越ながら思っている次第、、、であります。

続く